「岡上佑の古代史研究室」にようこそ!

このチャンネルでは、文献としての三国志、魏志倭人伝を解読し、
古代史最大の謎、邪馬台国の所在と卑弥呼の古墳の所在に迫っていきます。

チャンネルの始動に合わせて、動画をアップしていくと同時に
論考の基礎となる自作本の内容自体も徐々に公開していきたいと思います!
是非気軽に内容読んで頂いて、色々コメント頂けると嬉しいです!

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是非、参照しながら見てください🎵

https://www.notion.so/7159aa238ef4492891ec10f4ef2b7ccd?pvs=4

#魏志倭人伝 #卑弥呼 #邪馬台国

14 Comments

  1. どうもです。
    正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
    并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩

    初回の受け取りなのか?
    二回に分けてなのか?
    二度目もあったと考えるのか?
    悩みます。実際に鏡を
    100枚貰ったのだろうか?

  2. ワイは、景初2年だと考えてたんですが、後半の「目録」の部分を考えると、景初3年の方が辻褄が合うのかぁ。。
    後漢の光武帝の臨終の直前(57年)に、倭国の大夫(帥升ではない)の朝貢があったのは「皇帝の威光」が蛮族まで届いたってのを「アピール」してるのと同じように、、曹叡の臨終の直前に、同じく倭国の朝貢があったと「したかった」のかなぁと。
    倭国に「金印」を授けるのも同じだしなぁ。
    なので本来は、景初3年(239年)だったけれど、曹叡の生きている景初2年にしちゃったってこと。
    明らかに、光武帝に準えてるように見えるのは、ワイがうがった視点で見てるからなんでしょうね。
    まぁ、年代問題はそのくらいにして、、「金8両」の、少なさってのにはびっくりしました。江戸時代だと大金なのに。
    面白かったです。

  3. ①前半部、「賜汝好物」の意味はどちらなのか?問題。⇒「汝が好むもの(望むもの)をあげた」が正しいと思います。
    ・金が驚くほど少ない点⇒卑弥呼は「金銀財宝」は望まなかった。(貨幣制度が無い倭国において、金より鉄の方が価値が有ったかも?)
     むしろ「中国の文明・文化を学べるような品。造形・美術の極み。美術館や博物館に展示されるような工芸品」を望んだような気がします。
    ②後半部、「三通りの授け方についての解説」。⇒学びが有る。漢字の文字解釈で、一連の流れが、より「見える化」した印象です。
    ・「金印」と「その他の賜物」が、それぞれ別の者にあずけられていたなんて、びっくりです。
    ・で、「倭王」に渡した、については「倭女王」の誤記(転記ミス)だと思われますか?
    ③私は、ホントのツッコミ処は「卑弥呼の献上品がショボすぎる点」だと思います。邪馬台国の規模でたったこれだけ?

  4. 親魏倭王の金印が、誰の手によつて、誰に渡されたのか?卑弥呼は、その時、どういう立場にいたのか?という問題ですか?

  5. 動画作成お疲れ様です。

    好物ですが、辺境の国倭国はちょっぴりの献物と引き換えに自分の欲しいものを要求するくらい図太かったのでしょうか?
    あげる方の心理としては、いいものあげようと思ったけどなんかこいつら図々しいな、気に食わないしちょっと減らしとこ、とならないですかね。

  6. 前提として
    郡縣不能制民多流入韓國建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡ですから公孫氏が裏切った時点で帯方郡は後漢の郡の機能はないし238-242-248年までは、魏の郡としての機能はしてない事が推測できる。

    この状態だとDNA研究で見られる渡来人の群衆、古墳築造の労働者になった可能性。数十万人規模の難民だったのかも?

    吏譯轉有異同臣智激韓忿攻帶方郡崎離營。とあり、大陸の徐州・青洲・幽州・燕州の難民が多く含まれてる事も推測できるので、
    平定には、かなりの準備が必要だったと推定。

    楽浪・帯方郡の考古学史跡レポートもあるみたいですし、陳寿や其五年爲幽州刺吏毌丘儉所破語在儉傳で残ってた漢字の意味を後世で誤訳した可能性が非常に高く正始三年宮寇西安平の状態で本日解説の部分が成立するのか???

    個人的には、ないわ~。後世の漢字の解釈ミスと編集ミスかな?

    建安中の時代で馬韓の卑彌国・不彌国の卑弥呼と考察するべきか?248年頃に卑彌国が半島南部に引っ越したのか???
    です。
    明治・大正は、しっかり翻訳してたような記事最近目にしましたよ。w
    スターウォーズのエピソード4じゃあるまいし、エピソード1の東夷伝から理解しないから1000前に変な解釈がそのまま残ったんでしょうねw

  7. 私は明帝の下賜と新皇帝少帝の下賜の二回説派です。
    それは、もともと景初2年説だからです。
    景初2年説だと、難升米らが景初2年(238年)12月にもらって帰った品々と、正始元年(240年)に梯儁たちが持参した品々は時間的に同じものとは考えられないからです。
    (逆に言うと、景初3年説だと整合するというのは理解しています)
    下賜品が同じものだとすると、難升米らと梯儁たちはおそらく同行したということになると思いますが、そうであれば同行したという記述があってもよいと思います。
    それと下賜品が難升米らに託されたのであれば、梯儁たちが持参したような記事にはならないのではないかと思っています。
    あくまでも、景初2年説の立場からですが。

  8. 金印よりちょっと重い程度だから、言われれば、確かに金が少ない気がします。倭人に金をあげてもなぁってことで、コスパ的にそうしたのかなぁ、一方で、その他の品々が結構豪華で、それはそれで気になります。

  9. 毎回のツッコミ動画ありがとうございます。
    楽しいです。

    金より銅鏡の方がありがたかったんでしょう。
    その頃金ではまつりごとを動かせなかったのでしょう。鏡が祭司の重要ツールだったはずです。

    カネに目がくらむのはだいぶあとの時代なんでしょう。

    年末ジャンボ 10億!
    目がくらみます。

  10. ついに、都市牛利が、登場しましたね。最上級の謎の人物です。大夫のナシメは、おそらく奴国の王。それでは、次使のトシグリは、いつたいどこの国の王なのか?内藤博士は但馬の出石であるとする。石見。出石。明石。のルートが、注目されて来ます。😊

  11. 今回のお話でこんなことを思いました。中国皇帝の側が使者に賜物を渡すとそれはその辺境国には莫大な富だから部分的にも着服しないよう、物を運ぶものと、目録を運ぶ者は別にした。そうすると絶対に着服できないですね。簡単な工夫だけど効果は抜群。なるほどと思いました。すると伊都国が女王に錯綜が起こらないようにチェックしたとあるのは、この照合を一大率が行っていたということでしょうかね、女王に来るときはもうそのまま渡せるようにしたとか・・・
    金が少ないのは倭人が金をもらっても役に立たないからシンボリックに少しだけ上げただけなのか?などと創造しました

  12. とても参考になりました。倭人は銅鏡ばかり欲しがったが、銅鏡だけだと面子が立たないのであんな感じの下賜品になったのですかね。それにしても銅鏡を割らずに持って帰るのは大変だったろうと思いました。今ならプチプチがありますがw

  13. 金の量はわざと書き間違えてますね。
    差額を着服する為でしょう。

    通常、役人なんて賄賂でしか動かないもんですが、献上品に奴隷とか連れてくる奴等が賄賂なんか準備出来ないでしょう。
    仕方無いから下賜されたものを上手く誤魔化すつもりで皇帝に取り次いだのではないかと思います。

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