関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は征夷大将軍として江戸幕府を開きました。
そして、方広寺鐘銘事件を理由に、大坂の陣(大坂冬の陣・大坂夏の陣)では豊臣秀頼と淀殿を滅ぼし、豊臣家を完全に根絶やしにすることに成功します。
この時、徳川家康に残された時間はあと1年。
彼は生涯最期の1年間で一体何を成し遂げたのでしょうか?
豊臣秀吉が祀られている豊国神社を破壊した?
徳川秀忠の将来が不安で武家諸法度・禁中並公家諸法度を発布して幕藩体制を確立した?
第3代征夷大将軍に徳川家光を指名した?天ぷらの食べすぎで胃がんが悪化した?神になった?
今回は、そんな意外と知られていない徳川家康のラスト1年について語っていきたいと思います!
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32 Comments
明治政府が東照宮に寄進した秀吉の輿❤
家康は豊臣家をよほど怖がっていたので豊国神社を徹底的に取り潰したりした。
さらに己は「神」として日光東照宮を作ったりしたが頭がおかしくなっていたんだろうな
毛利家は関ヶ原で負けて120万石から30万石に減らされて以来いつかは憎い徳川を倒すと
代々言い継がれて遂に倒したんだよな。
信長が生きて幕府を築いたらここまで封建的な幕府を作っただろうか?
と、考えてしまうよね。
こんだけ○しまくっといて極楽浄土とは片腹痛い😂
信康って”織田”を名乗っていたんですか?
東照宮御遺訓のメッセージは実に心に響きました。やはり、真の成功者勝利者には、もちろん能力は大事ですが。人格がいちばん大事なんだと思いました。あれだけ群雄割拠の戦国時代で最終的勝利者が家康だった、己の死後も幕府が200年以上続いた、天運が味方したのもうなずけました。昨今の没落する芸能事務所、劇団、芸能人なども運営者たちの人格に欠けた行いが原因だなあ、と思いました。
よくある「家康論」ですね…
豊臣を潰した!と言われているが、、秀頼の息子さんは生かされていたらしいですが、、仏門に入っていたらしい?
家康は初めは豊臣家を残そうと考えていたと思う。もちろん徳川の臣下になればだが…。
でも淀様の態度と秀頼の意外な堂々たる姿に、潰さなければならないと考えたと思う。
一度取り潰すと決心したら、そこはやはり一流の戦国武将。綺麗に取り潰した。
まぁそこからの終活も含め、出来る事は行ったのはさすが。
徳川家康の裏にも海外勢のバックアップがあたりして😵
天麩羅食べすぎて腹痛って胃癌以外にも胆嚢とかにも異常があったかもしれませんね。
⚔️🗡️🗾
24:42〜「1542年に岡崎城に生まれた家康は」の所で、「(注:1543年という説もあり)」と仰られている様に、家康は「天文11年1542年」に生まれた事になっている。
天文11年は、西暦1542だが、天文11年12月26日に生まれたので、それをそのまま西暦に換算すると、1543年1月31日。
私は当初、「単なるその違いか」と思っていたら、本当は天文12年2月26日の頃に生まれたらしい。
それを父親の広忠がワザと「寅年, 寅の日, 寅の刻」に生まれたことにするために、2ヶ月も遡って生まれたことにして、記録したらしい。
この歴史の信憑性は?戦後のGHQがかなり書き換えた内容ではないでしょうか?秀吉の海外出兵は単なる野心?自衛、自存のためでは?知らんけど😜‼️
家康が皇室をまるで自分の配下にしたかのような記述がありましたが、事実なのでしょうか❓
私はわからないことがある、徳川家康は元々松平家だが、朝廷から征夷大将軍を賜るとき、朝廷から松平姓では征夷大将軍にはさせられぬト徳川姓に改名したらしい。何故に松平姓ではダメなの、徳川家康はアイヌの聖地、日光に自らの墓地、東照宮を築いたか?
禁中並公家諸法度、禁中並びに武家諸法度で武家と公家の縛りを制定した。
家康は鷹狩りが大好きで、鷹狩り係の内藤に鷹狩り場の今で言う新宿に馬が一気に一息で走る土地を与えたが、新宿は正式名は内藤新宿というらしい。日本橋起点の東海道の第一宿場町。
日光東照宮までの参拝道、日光街道は、松並木の街道。
日光猿軍団を観に行ったが、休みだた。日光はアイヌの聖地だとガイドブックで知った。日光東照宮で名工左甚五郎作の見ざる聞かざる言わざるを見て感激した。自殺の名所華厳の滝を見た、華厳の滝にある寺の龍神画を見れた。
家光と忠長より家光と保科正之のほうが本当の兄弟でありますから~
多分、秀頼とその子供は、家康に生かされてたと思う。それを材料に豊臣恩顧は、懐柔されたとおもう。
😂徳川家康は、子どもの頃から人質として囚われ、数々の精神的ストレスにも打ち勝って、大人の人と人との駆け引き、世の中の変動も観て経験し、器の偉大な人間になったと思う。この人が、現代人として活躍したなら、株、株投資で、ウォーフェン、バレット並に巨万の、富を手にするだろうと、思った。😊✨😊
秀吉が亡くなった時に自分がしたことを禁止するとか流石っす。
全部たべないとあんたの負けになっちゃうよそれ
家康のこの頃の話はよくあるが、実は大事なキーワードがいつも無い。
「富士山」
家康は生前、駿河の国から富士山に登る道を極楽浄土に至る道として思い描いていたらしい。
武田家との合戦で勝利をしたあと、富士山を浅間大社に返したり(これがきっかけで富士山の頂上は浅間大社の私有地となった)
関ヶ原の勝利の礼で浅間大社の社殿を寄贈。
具合が悪くなる前に富士山の近くに行こうとして駿河、今の沼津に移ろうとしたが病状が悪化して断たれた。
で、急に日光という関わりない地名が出てきた理由が久能山から富士山を登った先にあるのが、修験地の日光。
富士山のパワーを関東の守りに使おうとした格好。
久能山から日光のラインに富士山があるのは偶然ではなく、久能山から日光に家康の亡骸を移動する際、富士山のお膝元の吉原、現在の富士市に立ち寄ってる。
家康は寺の方は改宗したりしてたが、神社の方は成人した静岡浅間神社をずっと大事にしており、武田家との合戦でやむを得ず一度社を壊したが、その前に盛大に作り直す約束を祈り、実際、現在の価値で8億とか10億とかをかけて全て修復した。家康自身は最高な神になろうとした感じではなく、富士山を守り神にして徳川家を守ろうとしたと思う。だから日光を派手目にする考えは無かった。
そ
考えてみたら、秀忠が生まれるのと、信康達が亡くなるのがすれ違いじゃないの?
めちゃくちゃ分かりやすい!
武家諸法度と禁中並公家諸法度を公布した家康様!
家康が嫌いが多くなる晩年
これは個人の感想です
日本近代化を200年遅れさせてしまった方(◔‿◔)