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秀吉の虚像と実像
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戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯 (角川選書)
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お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
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#歴史 #日本史 #大河ドラマ #どうする家康

44 Comments

  1. 秀吉に子が生まれるたびに淀殿の側近が粛清されたり落書き事件や秀次事件と血なまぐさい話が出ますし…最も肝心なのは「秀吉が秀頼を子供として扱った」ということなんでしょうね
    ねねも鶴松産まれた時期に秀吉不在の大坂城の管理したけど刀を盗まれたから吉田兼見に夫の機嫌良くなるよう「神頼み」頼む話があったりどうも大坂城中は奥事情が緩い…
    家康が大坂城西の丸に入ったのはこういった警護的に不安な大坂城を守ろうという意識が多少はあったんかなぁ?

  2. 武士道さん、今回ばかりは無粋ですぜ🌛 昔、橋の下で拾ってきた子なんて表現があったけど元々は良い意味の迷信だったのかな?

  3. 本当に秀頼は秀吉の子供なら生きてたかなと、福島正則加藤清正黒田官兵衛など多くの豊臣恩顧の家臣は徳川に付きました
    秀頼は秀吉の子供なら徳川についたでしょうか

  4. 本妻の別妻に対する出産コントロール。ある程度は有っただろうが、必要以上に大きく取り上げるのは如何なものかと思う。
    厳選して少数にしても戦国時代、長男~次男の争いは起きている。じゃあ男の子生まれたら、あとは要らないかと言えば、乳幼児死亡率の高さ、性別を考えれば4~5人産んで、成人男子1名に成るかも怪しい事から、もっと妊娠させておきたいのは理解していただけると思う。
    生まれても里子に出すなり、出家させるなり、権力基盤を持つ前に外に出して戦力通告すれば済むことだし、もしもの時は呼び戻せばよい。
    家康も結果的には、そうしていますよね。

  5. フランス皇帝ナポレオンとナポレオン3世は血縁関係がなかったみたいなのも数年前ニュースになりましたね。
    子孫の遺伝子から調べた結果なようですが、秀頼の子孫がいたらもしかしたら突き止められたのかなって思ったりしちゃいますね。

  6. 当時は政治的に実際の血縁があるかないかより、太閤の子供と大本営発表することの方が大事だと思うので、実子であるかないかは、どっちでも良いと思う。

  7. 文と文を切り詰めすぎて聞きづらいです。

  8. 江戸時代の中期に書かれた『明良洪範』なる逸話集にいきなり登場する「豊臣秀頼は身長190cmを超える大男」などという、なにひとつ記録や裏付けもない与太話を根拠にして、秀頼は秀吉の実子ではないと主張する輩がアホみたいに多いなか、確度の高い史料のみを元に解説されていて、たいへん勉強になりました。

  9. 正妻(寧々さん)承認説を取るなら、自分に子どもができなかったから寧々さんは側室との子作りを許さなかったけれど、さすがにお互いに歳を取って寧々さんが折れた、というストーリーも無くはないかと思いました。が、それなら朝鮮出兵で秀吉が大坂を離れた隙に、茶々と誰かが不倫をしたという方が格段にハードルが低い気がしますね、、、

  10. 天下人にあんなに側室いて、茶々しか子作りを許されないというのは、無理があるように思います。

  11. おそらく秀頼の存命当時から秀吉の実子かどうかは見ただけで疑われていたと思います。秀頼は成人後は身長190センチ以上の大男、体格面では小柄だったとされる秀吉とは似ても似つかなかったでしょうし面影とかもなかったのでは。

  12. 大谷刑部も秀吉の子で疱瘡の痕というのもおねに毒を盛られて死にかけた為という話がありますね

  13. なぜ秀吉が嘘偽りでも秀頼を跡継ぎにしたのか
    その理由はすべては織田信長の血筋を残すことが目的だったから
    百姓出の秀吉が兎にも角にも天下人までなれたのはすべて織田信長のおかげだ
    秀吉には信長の血を残すこと以外頭になかった
    だから信長の姪である淀との子供が秀吉には絶対に必要だったし
    自身に子種がなかろうと人の子供だろうと跡継ぎにしたのよ
    そんなことは嘘の系図で関白になった当時の天下人秀吉には造作もないことだった
    家康もそれはわかっていた
    わかっていたが秀頼が信長の子孫であることには変わりないから黙って従っていた
    しかし家康も信長の姪を秀忠の嫁にし子供を産ませそれが徳川家光になった
    豊臣が滅んだ大阪の陣はいわば豊臣秀頼VS徳川家光という信長の子孫同士の争いだった
    そして家光が勝った

  14. 歴史学者の角田文衞氏は、待賢門院璋子(19)の生理周期を調べ上げて、
    崇徳天皇が白河法皇(67)との間の子だと証明してみせたけど、秀吉と茶々のことはそこまで分からないのかな?

  15. 歴史学者の角田文衞氏は、待賢門院璋子(19)の生理周期を調べ上げて、
    崇徳天皇が白河法皇(67)との間の子だと証明してみせたけど、秀吉と茶々のことはそこまで分からないのかな?

  16. 声、大丈夫ですか?調子悪いときは休んで良いですよ

  17. 北政所の承認制のという説は凄いですね。なんだか次回の『どうする家康』で茶々が家康に『お慕いしてもよろしいでしょうか?』と言っていたから、まぁないとは思いますが、まさかの家康が秀頼の実父だったという説とかだったらと妄想してしまいますね。まぁこの説はないと思いますが、これを成り立たせるには茶々が元々家康の事を母お市の方から話を聞いていて慕っていて、秀吉とは側室として繋がっているが、秀吉にとっても家康は多くの子ども達を作っているし、信康、結城秀康となるおぎい、北条へ嫁いだ姫おふうも含めて、それだけの有能な子ども達を生み育てた家康の実力者としての才能を持った子を自分の子としてこれからの天下を治める器量を持った子を残す事が豊臣政権安定の為には大きいかもしれないと考えたからでは?と考えてみました。大河ドラマ『どうする家康』でも秀吉は他の人は信用してなかったが、色んな自分を高める役をかっていたし、何せ自分の妹朝日姫を嫁がせたり、実母大政所もよくしてもらったし、追放に近い転封したが、その才能を欲したからかなと考えてみました。だからこそ茶々事淀殿は慕ってできた『自分と家康の子』なのにぞんざいに扱おうとしたから怒って大阪冬・夏の陣へ突入してしまったのかなと。妄想してみました。

  18. おはなしをきくと実子ではない。でも秀頼は父親がだれであれ織田信秀の子孫であるわけだから跡継ぎにふさわしいし秀吉も羽柴秀吉のころの約束通り織田家に政権を返上し,当時はなかった(?)豊臣家という称号も織田家に継承させたという感じにしたということなんですね。

  19. 確か秀吉から茶々への手紙に、懐妊を皮肉るようなものがあった筈。
    そこは踏み込まないのですかね?

  20. 奥さんの承認を得て子づくりしてるって話は興味深いですね。
    家康は関ヶ原以降子供が何人もできてますが、そういったしがらみがなかったからとも受け取れる。
    戦と子づくりは別儀ですし、正室主導であっても驚きはない。

  21. 秀吉公認で複数の男性と通夜参籠してたという話はやはり信憑性に欠けるものなのでしょうか🤔

  22. 甥の秀次さえ粛清しなければ豊富も安泰だったのにね

  23. 低い身分から成りあがって全国統一し、関白の座まで手に入れた男、豊臣秀吉。何もかも手に入れて神にでもなれそうだったのに子宝だけには恵まれなかったとは、やはり天は二物を与えず、なんですね。感慨深い話でした。

  24. 面白かったです。
    YouTubeでは何気に他の方があまり取り扱って無いテーマな気がします。
    秀次をあんな目に遭わせた史実からすると色んな説が無理があるなと思ってしまいます。
    もしかしてそれは淀君一派が主導だったとか?
    無精子症とすると近江時代の初代秀勝の石松丸とかはどうだったのですかね?

  25. 秀吉は長浜城主時代に男子が生まれてたみたいですけどそこら辺は言及しないんでしょうか?
    まぁこの子も実子か養子かで研究者の間で意見が割れてるらしいですけど

  26. 秀吉没後の石田三成の執着的忠誠を見ると三成が秀吉公認の秀頼の父親というのが自然じゃないでしょうか。

  27. 黙認していて自分の子種じゃないんじゃないかというのがなんとなくしっくりきました
    養子をたくさん取っていたので自分の血にはそんなに執着がなくて、でも養子じゃ家臣が付いていくか不安だし自分が死んだ後に分裂してしまうのではないかと思ったから
    自分の子という事で秀頼を産ませて豊臣家を安泰にしたかったのかなと

  28. ありがとうございます。僕は大野説を推したいです。茶々の気持ちを考えたらね…

  29. これは自分も昔からなんか怪しいなぁって思ってた

  30. 自分はやっぱり大野治長だと思う。
    乳兄弟という究極の幼馴染で淀殿と同時期に秀吉に支えて出世していくという経歴、
    関ヶ原の前では家康にわざわざ人質に取られ
    戦後は大坂城の開場交渉では使者として使われたこと、
    そのまま淀殿に留め置かれ、なぜか豊臣家のトップとなり
    そして最後は家族のように添い遂げてたこと、
    淀殿との間に特別な関係があったと考えるのに辻褄が合う

    後世の歴史家が自分の勝手な価値観で考えられないと決めつけるのは無根拠に等しい
    ガチガチに縛られた徳川の大奥と違い豊臣政権は比較的女性に自由があったし、淀殿にその気があってスタッフも自分の手のものが多かったとすれば、なんとでもできた可能性はある。

  31. 骨掘り起こしてDNA鑑定とか出来ないの?骨があるかも知らないけど

  32. 長浜城主時代に羽柴秀勝(石松丸(いしまつまる))が生まれているので、子種がないとは言い切れません、実子の可能性は大いにあります。😊

  33. 漫画の「続・戦国自衛隊」では大野治長と淀殿が密通していたということが描かれていたような

  34. 聞くところによると、秀頼は180cmくらいの偉丈夫&イケメンだったそうですね。
    同時代の人たちも小柄で貧相だったと言われる秀吉の子?みたいに思ったんでしょうね。
    真相は茶々のみが知るってことなんでしょうか。

  35. 昔のかなり歴史トンデモ番組でこんな説をやっていました。
    衝撃的でした。
    何人もの男と交わり父親をわからなくするというやり方で後継ぎがいない家に子をもららすという・・・昔はそのような悪しき慣習があったそうです。
    それってホント??って思ったので・・・
    その説では最初の鶴松は秀吉が承知でやったそうですが、秀頼の時は茶々の独断で行ったといわれていましたね。

  36. 大野長治❌→治長
    茶々は名古屋❌→名護屋

    間違いが多すぎる!
    他にもたくさん間違いがありそうなチャンネルだな〜。

  37. 秀吉は優れた戦術家の一面からして、子種が無い事は分かっていただろうし、自分の子として秀頼をもうけて豊臣政権をしっかりした物としたかったのだろうと思います。
    そこが超一流の武将の割り切り方だと思いたいです。

  38. 淀殿と加賀殿は形ばかりの側室で、秀吉とは男女関係はない。秀吉は信長妹お市御寮人に一番似ていた茶々の妹、初姫を愛人にしていた。茶々は背が高く秀吉のタイプではなかったので、ガチホモで茶々の乳兄弟の大野治長と子作りさせ、生まれてきたこを跡取りにしようとした。この秘密を守るために大阪城に住んでいた女中や僧を多数殺させた。

  39. 淀殿は秀頼を大坂城の奥深い所で育て、近習の大名たちにもめったに会わせなかった、と作家の伊東潤さんがテレビ番組の中でおっしゃっていました。
    これが本当だとすれば、秀頼が父親の秀吉に似ていないことを勘づかれないためと推測できます。

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