【どうする家康】長篠の戦いの合戦解説!なぜ、戦国最強と言われた武田軍は敗れ去ったのか?【歴史雑学】
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8 Comments

  1. 武田勝頼がもし、長篠城を攻略を優先してから、信長、家康の連合軍を迎え撃つか考えて置くか、撤退するべきか選択しは2つですよね、勝頼が穴山梅雪の意見を聞いておけば敗北はしませんでしたのにね、武田の優秀な家臣達を失いましたね。

  2. 武田家の最大の不幸は信玄の弟の信繁を川中島で失った事!信繁が健在だったら信玄と義信の関係修復に最大限の努力をしたでしょう!

  3. 勝頼が愚将ではないにしても優秀な将とは絶対言えないと思うのは、長篠設楽原の戦いにおいて直接信長が援軍が来た事が分かっていた、つまり誰が考えても大軍を引き連れて来たのは分かりきっていたはずで、対して勝頼は、たった一万五千しか連れて来ていなかった上に長篠城の抑えとして三千を残していたので、たった一万二千の兵力で3倍の兵力を持つ織田徳川連合軍に戦いを挑む時点で負けるのは確実だし、織田徳川連合軍は空堀を掘り馬防柵を作ってさらに大量の鉄砲と大量の弾薬まで保持していて、こんな万全のした準備までしている相手に対して勝頼は無謀な突撃を繰り返し大惨敗をきっしてしまった責任はあまりに大き過ぎる。

  4. 本来勝頼の出陣は家康の長男信康が城代を務める岡崎城の奉行大賀弥四郎が家康に不満を持って武田に内通し、武田軍を岡崎城に迎え入れようとする謀略を受けての岡崎城乗っ取りであった。

    しかし大賀の謀反が家康に露見した岡崎城乗っ取りが頓挫、ならば三河と遠江の分断を狙って吉田城を攻め、失敗した上での長篠城攻めです。

    ここで撤退したら、武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで戦いもせずに尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝し、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速するだけの結果になったと思います。
    甲斐や信濃の国衆達も、信玄の時代からの重税や金山の枯渇などで困窮する中、わざわざ遠征したのに、戦果無しの撤退じゃ恩賞も貰えないし、城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や討ち取った兵の鎧兜や刀などを売り払って臨時収入を得る事ができない。 その事を不満に思い、何をしでかすか分からないと思います。

    仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。 仕切り直した時には今以上の兵力で織田が徳川の援軍に来るかもしれない、それどころか織田が畿内を完全に平定したら、織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなると徳川も呼応するから打つ手が無くなる。

    伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、武田と連携できなくなったとはいえ、まだ織田が本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない今しか信長や家康を討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与える機会はないと勝頼は判断したのだと思います。 私はその判断は間違ってはいなかったと思ってます。

    また、最近では決戦に積極的だったのは山県昌景や馬場信春、内藤昌豊達だったともいう話もあるそうです。 武田家家臣達は名門意識や領土欲、独立心が強い者が多い、そんな彼らが素性の怪しくまともに戦っていない織田や、同じく素性が怪しく三方ヶ原で破った徳川を相手に戦いもせずにのこのこと撤退することを主張するのか、当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと違い、武田家は豪族達の連合体という政治体制、そんな中で勝頼が決戦を強行なんてできるのかという疑問から、この決戦はむしろ重臣達の総意だったという話です。

    本当に勝頼に人望がないなら、酒井忠次の鳶ヶ巣山砦奇襲で退路を断たれた時に、勝頼を見捨てて逃げ出し、別の信玄の血を引く者を担ぎ出して武田家当主に据え、傀儡にすればいいだけです。 そう、信玄が信虎を追放した時のように。

    でも山県昌景や馬場信春達はちゃんと戦った。 という事は山県昌景や馬場信春達からは勝頼は悪く思われてはいなかったと考えるのが自然だと思います。 馬場信春が殿を務めて討ち死にしたのは、自分が決戦を主張し、その結果敗戦したから、敗戦の責任を取っての行動と考えると辻褄が合うと思ってます。

  5. 勝つ事しかない勝つ頼りは負けることを考えてなかったのが大きな誤算なうえ果報も尽きて次々と重臣たちが裏切られ武田家は滅亡したのも信玄が御家を護るといえ親を追放したり嫡男を自害させたり今川を裏切ったりと罰当たりな報いが武田氏の滅亡に繋がったような気がします。

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