武田信玄の死後、武田家を継いだ勝頼は三河への侵攻を目指した。しかしその重要拠点の一つだった長篠城の城主・奥平信昌が徳川家康に味方し、城を徳川に奪われてしまった。そこで勝頼は長篠城攻めを決意。城は武田軍に囲まれてしまう。そこで活躍したのが鳥居強右衛門だった。
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11、桶狭間の戦い敗戦後 大高城で殺されてかけていた強運の家康 厭離穢土欣求浄土の深い意味
12、実は超重要な信長と家康の同盟 清州同盟 今川家との決別した家康の自立
13、家康の正室 瀬名姫と長男 信康の救出大作戦!三河平定へ
14、家康の正室 瀬名姫 長男 信康と徳川を救った悲運の生涯 悪女説の真相
https://youtu.be/P5NjNcViGjo-yhUVPtqiH6A/join
15、家康の正室 瀬名姫の悲惨な最期 捏造された悪行 信長の策略だったのか?
16、信長と家康を苦しめた一向一揆とは その凄すぎる勢力拡大の背景
17、三河一向一揆 一向宗の資金源は?勢力拡大の秘密とは 悲劇を招いた領主権争い
18、三河一向一揆から分かる信長と家康の決定的な違い 虐殺と赦免
19、本多正信、夏目広次、渡辺守綱 三河一向一揆で家康を裏切った3武将の生涯
20、家康の三河統一 石川数正の重要ポストと役割 松平一族の抑制
https://youtu.be/D9dwdx1LV_E
21、武田信玄との密約 家康の浜松侵攻の裏側 井伊谷攻略
22、お田鶴の悲惨な最期 今川氏真 最後の意地 今川滅亡へ
23、服部半蔵の意外な役割 伊賀越えの実態 忍者か武士か? 家康を影で支えた武将
24、信長の誤算 裏切り 金ヶ崎の戦い この時家康は? 朝倉義景、浅井長政との争い姉川の合戦へ
25本当の姉川の合戦 朝倉義景・浅井長政VS織田信長・徳川家康
26三方ヶ原の戦いの実態 新たな論争となっている史料 武田信玄vs徳川家康
27三方原の戦い 武田信玄 無念の最期 しかみ像論争の決着 家康を救った夏目吉信
28https://youtu.be/cYbgI2xDTYI
当代一の美女お市の方と凄すぎる3人の娘 浅井長政の最期
29滅亡寸前から徳川四天王へ 井伊直政はなぜ再興できたのか!
30井伊直政 後編 赤備えデビューの真相 天下を決めた一言 開国の元勲と言われる理由
31武田勝頼 実は愚将ではない 父信玄を超えられなかった悲運の生涯 たった一つの過ちとは
32長篠の戦いの全容 悲劇の英雄 鳥居強右衛門 織田徳川連合軍と武田勝頼の決戦へ
12 Comments
鳥居強右衛門は岡崎体育ですね。ぴったりの配役です。勝頼は信玄の血を継いでるだけあって残酷です。おふうと仙千代も残酷な最期です。アラモの碑は明治になっても顕彰される強右衛門なんですね。勉強になります。市橋先生は心底歴史が好きなんですね。本当にいつも素晴らしい歴史解説ありがとうございます。
鳥居強右衛門は三河人の代表ですね🙂
今の岡崎市の人々の誇りですよね😊
タイプは違いますが滋賀県長浜市では
石田三成公の生誕地で有る事を誇りに思う方々も多いですよ😊
やはりどうする家康は
お遊戯のレベルを超えないですね。
鳥居強右衛門を家臣に持った奥平氏は家康公より厚く信頼を得ることになったのですよね。後に吉宗公から西の守りと頼まれ豊前中津城に入り幕末まで当地を守ったそうです。自分は大分県出身なのに中津城を初めて訪れたのは50を越えた数年前のことでした。展示の中に逆さ磔の図の掛け軸があり、あっ!ここは奥平氏の城だった!…と非常に頭の悪い気付きを得ました(苦笑)。歴史は大好きで特に戦国時代前後の小説など若い時分散々読んできたはずなのに、中津城は官兵衛でしょ~なんて。学習成果皆無の自分にガッカリした思い出でした。
長篠城跡から宇連川に降りて、豊川との合流地点から鳥居強右衛門の磔跡側を見たことがありますが、こんなに近くで磔になったんだと感じました。私の知っている、於フウの処刑の地は、鳳来寺小学校の近くにあるのですが、お墓は岡崎にあるのですね。
お疲れ様です。
長篠城史跡保存館には血染めの陣太鼓が残っています。先生が持っていらっしゃる本も昔は史跡保存館に置いてありました。
また、豊川、新城から岡崎へは峠を超えて行くとと今の国道1号線と比べるとうんと近いです。山歩きをしていると昔の街道のムダの無さを強く感じ理解事がよくありました。
一説では勝頼は強右衛門の忠義の心に感動して助命しようとしたけど、強右衛門が助命を断ったとか、勝頼の叔父で信玄の弟・信廉の家臣が勝頼の助命せよという命令が来る前に既に強右衛門を殺していたとかいう話もあるらしいです。
アラモの碑をちゃんと見ましたよ!
地元ガイドの方にきちんと説明して頂きました。
本当の長篠の戦いが分かりました
今まで全く違って理解していたと 知りました
今回も興味深ったです。
それにしても勝頼は長篠設楽原合戦の決定、人質の使い方、鳥居強衛門の扱いと言い、大事なところで直情に駆られて決定をしてるように思います。
家康が三方ヶ原後、自身が直情的であることを悟り完全に制御仕切って、太閤に「家康ほど律儀で温厚な人はいない」と言わしめたのとは対照的です。
話は変わりますが、この秋に北野武監督作品の「首」が封切られます。本能寺の変・中国大返しをテーマに30年構想して実現した作品とのこと。完成記者会見での監督の話やプロモーション映像から、「本能寺の変・秀吉陰謀説」を主軸に以前市橋先生が触れられた信長による家康暗殺計画も出てくるようです。
ちなみに家康役はベテラン有名俳優の小林薫さんです。飄々として森繁さんの「家康」を彷彿とさせます。
鳥居公を殺した勝頼は、武田の旗印にしている孫子の本質を全く理解していなかったと世に宣言したようなもの。
孫武は、対楚戦を考える闔閭に献上するため孫子を書いた。
楚を強国に導いたのが荘王。
著作物は、書かれた背景を理解していないと本質を理解できない。
孫子を学ぶには春秋左氏伝等を参考文献として読む必要があるが、そこに楚荘王と解楊のエピソードがある。
よって勝頼は、春秋左氏伝すら読んでいなかった事になる。
右上の泥まみれのプレデターみたいな人は誰なんだい?