三方原の戦いの後編。遠江への侵攻を進めた武田信玄は、家康の居城浜松城を通り過ぎ、三方原へ徳川軍をおびき寄せ罠にはめた。今回の動画では三方原の戦いとその後の信玄の死について徹底解説。

●楽曲提供:LAMP BGM

1、徳川家康を天下人へ導いた四天王とは 本多忠勝 前編

2、徳川家康が野戦に強かった理由 戦国最強 本多忠勝 中編

3、これぞ武士道!徳川四天王 本多忠勝が残した言葉 家康の凄すぎる家臣配置

4、信長・秀吉も認めた武将 酒井忠次 前編 知られざる家康との血縁関係とは

5、徳川最大級の悲劇 家康の長男 信康切腹事件の真相 なぜ信長に殺されたのか? 重臣酒井忠次の後悔

6、徳川四天王 榊原康政 下級武士が大名へ 知勇兼備と言われた理由

7、実は武田信玄を追い詰めていた 徳川四天王榊原康政の策略

8、桶狭間の戦いの重要拠点 大高城と鳴海城 織田信長・今川義元の最終決戦

9、どうする家康 桶狭間の戦い 今川義元が落ちた織田信長の緻密な罠

10、桶狭間の戦い 今川義元の最期 凄すぎる信長 決断の瞬間

11、桶狭間の戦い敗戦後 大高城で殺されてかけていた強運の家康 厭離穢土欣求浄土の深い意味

12、実は超重要な信長と家康の同盟 清州同盟 今川家との決別した家康の自立

13、家康の正室 瀬名姫と長男 信康の救出大作戦!三河平定へ

14、家康の正室 瀬名姫 長男 信康と徳川を救った悲運の生涯 悪女説の真相
https://youtu.be/P5NjNcViGjo-yhUVPtqiH6A/join
15、家康の正室 瀬名姫の悲惨な最期 捏造された悪行 信長の策略だったのか?

16、信長と家康を苦しめた一向一揆とは その凄すぎる勢力拡大の背景

17、三河一向一揆 一向宗の資金源は?勢力拡大の秘密とは 悲劇を招いた領主権争い

18、三河一向一揆から分かる信長と家康の決定的な違い 虐殺と赦免

19、本多正信、夏目広次、渡辺守綱 三河一向一揆で家康を裏切った3武将の生涯

20、家康の三河統一 石川数正の重要ポストと役割 松平一族の抑制
https://youtu.be/D9dwdx1LV_E
21、武田信玄との密約 家康の浜松侵攻の裏側 井伊谷攻略

22、お田鶴の悲惨な最期 今川氏真 最後の意地 今川滅亡へ

23、服部半蔵の意外な役割 伊賀越えの実態 忍者か武士か? 家康を影で支えた武将

24、信長の誤算 裏切り 金ヶ崎の戦い この時家康は? 朝倉義景、浅井長政との争い姉川の合戦へ

25本当の姉川の合戦 朝倉義景・浅井長政VS織田信長・徳川家康

26三方ヶ原の戦いの実態 新たな論争となっている史料 武田信玄vs徳川家康

25 Comments

  1. 家康公は還付無き程にうちら割れましたが信玄公が病没、甲斐に撤退。
    武田は戦に勝ち徳川は勝負に勝った。
    やはり戦は家中含め生き抜いた者が勝になるんですよね。

  2. 夏目、本多、鳥居…つくづく家康は優秀で義に厚い家臣に恵まれてますね。姉川の合戦でも外交官石川数正が皆を救いました。酒井忠次も家康を一喝していました。
    家康は本当は浅井長政につきたかったんでしょうね。
    三方原の戦いも楽しみです‼︎

  3. いやー、言い方が悪いかもしれませんが非常に面白いですね、家康氏が何とすごい強運の持ち主でしたのでしようか、又本当にすごい家来を持って幸せな御仁です。

  4. 面白かったです。
    今夜も楽しみです。
    家康の三方ヶ原の絵については私はどこかで
    あまりの恐ろしさに大を粗相してしまい、
    この無様な姿を戒めの為肝に銘ずるため描かせた、
    と聞いたことがありました。もっともらしいウソでしたねw
    信玄の死因は結核、ガンと並び
    日本住血吸虫に侵されたという説もあるんですね。山梨県特有の地方病ですかね。
    あとは茨城県などでも見られたとか。
    近年、、、平成に入ってやっと撲滅されたと聞いていますが
    信玄がそれに侵されていたとは何とも不運。
    もちろん当時は死因が不明だったんでしょうね。
    ナントカ巻貝が寄生して引き起こすやつですね。怖い病状です。
    水が汚染されるそうですね。youtube内で動画を見て知りました。

  5. 温暖な三河と言えども厳冬期。
    抜かる信玄公の落とす運。

  6. そして布橋という布の端を、犀川崖の上を走り即死

  7. 信玄の死はまさに「運を味方につけた」のですが、運を味方につける為には日頃の備えを努力し(守りを強化し、配下の臣を鍛えて適材を配置する 一言坂や二股城の戦い)チャレンジ精神を持ち(三方ヶ原へ撃って出る)チャンスを逃さず(犀が崖の夜襲にて一死を報いる)時を稼いだことが、信玄の死を招いたのではないでしょうか。先生の解説を伺い、家康が天下人となる為の「運を味方(三方)につけた戦いの様な気がしてきました。

  8. いつもありがとうございます。今回も面白かったです!
    三方ヶ原の戦いでは家康が意地を見せた・・・の説に何故負け戦を?と正直思ってましたが、家康が三河を良くまとめて裏切りもなく武田にとって決定的な優位性もてなかったのがよく分かりました。当時の食料などは現地調達でしょうから、こちらも武田軍は上手くいってなかったのでしょうか。
    時期と地図は分かりやすく面白いです
    これからも宜しくお願いします

  9. 浜松住まいで、新城市にもよく行っているのですが、三方ヶ原の戦い、犀ヶ崖の夜襲の後、刑部城→野田城の行軍が2ヶ月もかかったのは不思議ですね。そこまでかかる距離じゃない。

  10. 家康はラッキー。
    めちゃくちゃ良い家臣に恵まれた時点で凄くラッキーじゃないですか!

  11. 素晴らしい歴史解説に吊り込まれて、最近見なくなっていた家康の大河を見るようになりました。お二方がこれ以上ない魅力的な方々で、学者ぶらず非常に謙虚にお話しになる方、とそれを知的にフォローされる女性の魅力。大河を観る以上の人間的魅力を感じます。

  12. 三方ヶ原の戦いも決戦するか悩んで日暮れ前に開戦した事実を含め、信玄が慎重に事を進めすぎたきらいが垣間見えますね。

  13. 日本住血中病は甲府盆地にのみ存在した風土病で、昭和初期まで根絶が進みませんでした。泥田に入りタニシから媒介される寄生虫病なので現実性が低いですが、甲斐ということから出た説でしょう

  14. 甲斐国のいわゆる風土病として、体は痩せてしまうが腹だけが膨れる病があり、かなり後年になってそれが川の貝が媒介する寄生虫(日本住血吸虫)によるものと判明したため、多くの水田を埋めて桃や葡萄の果樹園にしたそうです.信玄の死因としてもありうる話だと思います😉

  15. 媒(なかだち)は、確かに媒介や仲介の意味もありますね。謀る(はかる)と似てますが、女偏が興味深いです。深い意味は・・、無いです。

  16. 4/23放送の姉川戦で忠勝の武功が演出されなかったのが腑に落ちなかったのですが、伏線としてあえて描かなかったのかも。以前から間者を送っているにも関わらず忠次忠勝康政トリオ含め徳川家臣団の戦術器量に関して信玄は不勉強過ぎた。これが仇になって足止めを食らい命を落としていったと認識しています。

  17. 徳川265年…歴史は勝者が書き換える。それを覆すには、確固たる証拠が必要。そこにより一層、史実がねじ曲がる落とし穴がある。
    成人した人間の心の内 思想 信念 行動が大きく変わる事はない。
    部分的に解明されても…です。
    例えば、家康は人質時代に遊んでもらった?信長を人として好きであったと考えてると…小牧長久手の戦いまでの家康の行動は理解できます。
    今回のテーマ:三方原の戦い は、第二次包囲網で苦闘の信長を頼らず(助けるため)= 籠城戦を選ばず 家康版桶狭間を夢見て 三方原で信玄を相手に死を覚悟して行っただけではないかと考えています。

  18. 明治時代の陸軍が作った布陣図は信用に値しますか?
    桶狭間の戦いにしても、関ヶ原の戦いにしても
    最近は従来の布陣や攻撃は間違いだったとされつつありますよね?

  19. 浜松市民です。
    犀ヶ崖は浜松城の北側の堀と考えて居ます。
    浜松市西島って、今の西島だとすれば浜松城からはすごく離れていて
    後詰めとして機能するんでしょうか?
    ちょっと遠過ぎる気がしてなりません。

  20. でもね三方原の戦いは完璧な負け。歴史解説なのだから、さいが崖で一矢報いたとかはどうでも良いのでは?負けなんで運が良かっただけですよ。

  21. この敗戦は家康自身痛恨の戦だったけど教訓も与えた感じがする。
    解説を見るとかなり奮戦したんですね家康。信玄も徹底的に
    やれなかった訳がわかりました。むしろ奮戦した家康側が人材を
    多数亡くした方が痛手だったでしょうね。

  22. 先生 浜崎さん こんにちは👋😃いつも楽しく拝見させていただいています❗韓国から*^^

  23. 箱書きにある長篠戦役に対して三方ケ原戦役でも良しとするのはやはり忖度?歴史学って時の価値観、利害関係者等によって影響を受けてしまうものなんですよね。

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