「どうする家康」では間もなく松平家康から徳川家康に名前が変わります!
そこで今回は「徳川家康」の名前にまつわる5つの謎に迫りましょう!

・なぜ戦国大名の名前はコロコロ変わるのか?
・なぜ名字まで変える必要があったのか?

今回も1からわかりやすく丁寧に解説していきます!

※本動画は「どうする家康」のネタバレを一部含みます。

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0:00​ オープニング
0:32 「徳川家康」の名前に隠された4つの謎
1:11 なぜ名前が変わるのか?
2:27 元服し松平元信と名乗る
3:01 諱と通称
4:15 松平元康へ
4:52 家康の「家」の謎
5:50 源義家から取った?
6:58 ドラマの解釈は?
8:06 なぜ松平から徳川にしたのか?
8:21 三河守になる
9:07 得川氏に結びつける
9:58 やはり狸親父!?
10:25 戦国大名「徳川家康」へ
11:05 名字を「徳川」に変えた意味
12:04 徳川を名乗れない家康の子
13:21 参考文献のご案内
13:31 ライブ配信のご案内

についてお話しています!
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■関連書籍のご案内
平山優『徳川家康と武田信玄』(角川選書)
「どうする家康」時代考証の平山優氏による家康と信玄の抗争を詳述した選書。桶狭間の戦いから武田信玄の死までの経過がかなり詳しく書かれているので、『どうする家康』の上半期で描かれる内容はほぼ網羅されると思います。上級者向けですが、最新研究の動向を知りたい方は必見です!
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柴裕之『青年家康』(角川選書)
家康誕生前の松平家から竹千代時代、松平元康時代を詳しく取り上げています。竹千代は今川家の人質ではなかったなど「どうする家康」で描かれる前の時期の話がほとんどなので、ドラマの前提知識として知っておきたい人におすすめの1冊です。
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黒田基樹『家康の正妻 築山殿』(平凡社新書)
築山殿(ドラマ名:瀬名)の動向を詳しく追った新書です。築山殿の同時代の記録は1点のみであり、限られた史料を精査して彼女の生涯をたどっています。信康事件も詳しく言及されているので、信康事件を詳しく知りたい方にもオススメです!
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■今回の時代のキーワード
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※使用している背景映像は河原撮影ならびにフリー画像・映像素材・ライセンス取得済みの素材を使用しています。
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16 Comments

  1. 18時、20時
    どうする家康を2回見て、先生の説明をお待ちしていました。

  2. ご存知とは思いますが、諱は元々中国から来たものです。たとえば「三国志」で有名な諸葛亮孔明は、”諸葛”が姓、”亮”が諱、そして”孔明”は字(あざな)です。それにしても、長男の信康も松平姓とは意外でした。もし切腹させられていなければ、いずれは徳川姓を名乗っていたかもしれません。

  3. お疲れ様です。徳川を特別な名字にする家康の企みは成功したみたいですね。今も徳川家と聞くと、思わず「はっはぁー。」って、頭を下げたくなりますもん。(笑)
    近衛前久、懐かしい。麒麟が来るの近衛前久が好きでした。
    今日の放送.最後ビックリしました。三河一向一揆、ローマ人が暗躍してたんだ❗️って。(笑)

  4. 確かに、最初子どもの時に不思議に思いましたけど、徐々に理解するようになったけど、今思うと確かにね…
    若い時からたぬき親父になっていくフラグがあったんでしょ…

  5. 今回も楽しく拝見しました。
    以前から名前は縁起担ぎとか武家の繋がりとかで変わる事があるのだろうと思っていましたが、名字が変わることは凄く疑問でした。解説してくださって納得しました。ですが、名前や名字が変わってしまったら諸国の武家や武士たちに混乱がなかったのかまた疑問に思ってしまいました😅
    その辺もライブの時にでもお話しくだされば嬉しいです。
    今回もありがとうございました🍀

  6. さすが 河原先生の15分動画は 聴き応えがあります。今回も ありがとうございました。新しい知識(過去に三河守になった家柄 得川≒徳川)を知る事が出来、また 松平と徳川を 区別させる必要があったとか、徳川を名乗れなかった息子達が 何故なのかも気になりますね〜。また そのあたり 国守であり、父親である徳川家康の役を 松本潤さんが とのように演じて そして役者としても成長していくのかも 気になります。まだまだ 坊っちゃんの殿様ですから(笑)

  7. あれ、家康の末の息子の頼房も徳川姓ではなかったでしたっけ…と思ったら、最初は松平姓で家康存命中は徳川姓は与えられなかったっぽいですね

  8. 秀康は徳川の名乗りを許されていたけど養家の結城氏に配慮して結城を名乗っていただけではなかったでしょうか
    松平忠吉は東条松平、松平忠輝は長沢松平にそれぞれ養子に入って松平を名乗っています

  9. とても分かりやすく、面白かったです。諱が忌み名を連想するため無礼と思われていたというのは、知りませんでした。なるほどなあと感じました。また三河平定後、三河守となるためにわざわざ得川という血縁のない家系を称したのも、興味深かったです。お世話になった近衛前久に賄賂を払うも、額が十分の一だったのも、いかにも締まり屋家康らしいですね!家名変更の新説も是非知りたいので、ライブ配信楽しみです!!この新名”徳川”が、他の松平姓から頭一つ飛び出した”特別感”を生み出し、人生ゲームのランクアップのような効果もあったのでしょうね。しかし、この徳川の名をすべての息子に名乗らせていないというのも、意外でした。例外が、2代将軍秀忠、尾張藩初代、紀伊藩初代というのは、図らずも後の御三家親藩を彷彿とさせ、この頃から家康は自分の神格化や特別に選ばれた者の子孫という考えを持っていたのでは?!と思わせます。

  10. 「得川」というのが以前に三河守をしたことのある苗字というのが
    とても納得できました。

    松平も徳川もどちらも有名で、どんな理由で変えたのか
    考えることさえありませんでした。
    大河ドラマでは、どんな説明をするのか楽しみです('-')

  11. 多分、家康は最も『徳』を大切にしていたのだと思いますよ。

    個人的推測ですが今川時代に太原雪斎から教えを受けていた折に竹千代の家に徳が無い事を教わっていたのだと思います。

    信玄を置いて生きていたら天下を取ったとまで言わしめた祖父の清康が奇怪なハプニングで呆気なく絶命したエピソードにも触れて教えたのだと思います。

    雪斎は武将なりの徳の積み方や家康の運命(最後は天下を取る人生)も教えたのだと思います。
    そうでなければ、本来キレやすい性根の人が忍耐に忍耐するとは思えないです。

    あと、人生の節目で絶妙な対応策を既に持っている事も予め節目が来る事を予想出来ていなければ説明が付かないです。桶狭間、関東移封、幕府開設以後の政治対応。足利幕府は全てが行き当たりばったりでした。足利の人達が無能だったのではなく、家康が予め幾つかシナリオを想定して対応策を講じていたとしか説明が付かないです。

    想定外の代表は伊賀越えや関ヶ原の敗色濃厚な場面だと思います。伊賀越えは本当に殺される予感が過ぎって仕方なかったから大変だったと述懐しているのだと思います(笑)

    話は戻って信長から用済みとなった徳川に対して信康切腹も信長が戦争吹っかけているのと同義です。
    普通ならば絶望して合戦で死に花咲かせに暴れるのが信長の描いたシナリオだったはずです。

    推測ですが、これが外れたから今度は武田討滅後の信長自ら饗応する行いがあったのだと思いますよ※多分毒殺を狙っていた。→道理に一途な光秀が間一髪救出。毒殺を邪魔された信長が光秀にキレる。

    武田信玄も上杉謙信も信長に毒殺されたのだと思います。謀略にも明るく洞察力もある家康がそれを見抜けないとは思えないです。饗応も暗殺を半分解っていたと思います。
    ※達観出来るのは何かで運命を知っていたのだと思います。

    家康はつくづく劉備と似てると思います。
    すぐ癇癪を起こして裏切るのが劉備で、
    ※曹操裏切りや夷陵の戦い、徳融棒叩き逃走etc

    それに対して忍耐を重ねたのが家康だと思います。多分、劉備の生き方を反面教師にして戦国武将をしていのだろうな、と個人の感想です。

    最後に名前を何度も換えたのは単に占いオタクなのだと思います。名前を変えてしっくり来たのが徳川家康なはずです。

    占ったら『天下統一運』と言う運勢でした。始めから天下を見据えて戦国武将していたはずです。家康の行動に余りないのが、『たまたま』です。

    結果を狙って出している側面が有ります。
    毎度、世間には建前でたまたまを装うとは思いますがね。

  12. 有難うございます。先祖が、世良田氏の子孫であると言っていたので、それを利用して、近衛家に取り付ぎを頼んだのですね。そのとき、系図などを付けて申請するのでしようか? なにか、証明なるようなものや、説明とかは不要だったのですね。
    そして、このとき、位階も貰ったのでしようか?(それともすでに持っていた?)

    ちなみに、これは武家官位なのでしようか。ちょうど、三河国内で、三河守の者(勝手に名乗る場合も含め)がいないので、ちようどグッドタイミングだつたのですね。

  13. 御三家が成立したのは、家宣が甲府から6代將軍に就任の後。水戸家頼房が德川姓となったのは、秀忠と駿河家德川忠長が亡くなってから。因みに三河守は家康のあとは制外の家と呼ばれた越前家(福井城天守台の古い碑の説明には德川秀康とあります)の結城秀康、忠直と葵三代引き継がれています。のち三河守は美作津山松平家に引き継がれます。信康は切腹。資料にもよりますが、どうも兄二人病死で急途紀伊家を継ぎのち尾張家をさしおいて8代将軍となった吉宗が御三卿(田安、一橋、清水)を成立させたあたりで德川姓を剥奪され松平に格下げされた疑いのある家や人物が有りそうですね。

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