徳川家康の正室、通称、瀬名姫。築山の館に住んでいたため、築山殿とよばれることもある。瀬名は家康との間に二人の子を作った。天下人の正室として、幸せな人生を送ってもおかしくなかった。だけど、瀬名は家臣に刺殺されるという悲劇的な末路をたどることになるんだ。刺殺された理由は瀬名にあり、そこから瀬名は悪女と呼ばれることもあるよ。彼女はどんな女性で、どのような人生を送ったのかな。 今回は、瀬名の生涯について話すね。
ナレーション: VOICEVOX 春日部つむぎ

#どうする家康 #日本史 #戦国時代 #VOICEVOX #春日部つむぎ

26 Comments

  1. 瀬名姫生きてください!生きて殿を愛してお守りしてください!!どんなにいいシーンやかっこいいシーンよりも殿と瀬名姫が仲良くしているところを見るのが楽しみです!!
    氏真なんかに負けるな!!瀬名姫!!

  2. 8:39「1579年9月15日」ではなく「天正7年9月15日」(1579年10月5日)です。太陽太陰暦とグレゴリオ暦では月日が異なります。

  3. この手の嫁いびりは今でもあるけど、いびる相手が間違った。嫁姑間の狭い視野では男社会を理解できなかったのだろう。

  4. 今時、「通説」を信じるのは、よほどの素人だけだな。ただしNHKは理解できないかも。

  5. 共に苦労した者を淘汰するのは、どの時代も変わりませんね
    支えられた側は特に慢心しますね。

  6. 私はこの瀬名姫と信康の処断は家康の意思で行なった事であり、原因は岡崎城の信康の家臣を中心とする岡崎衆(怪我や病気で戦場に出れなかったり、内政向きの人間が多かったとされる)と家康のいる浜松城の浜松衆(家康の元で武功を挙げる者が多かったとされる)との間で対立が起き、岡崎衆が信康を担ぎ出し、家康に対して謀反を起こして強制的に隠居させようとした、あるいは家康を殺そうとしたからそれに先んじて信康を処断して岡崎衆の梯子を外し、徳川家を一つに纏めようとしたのだと思います。

  7. 晩年をすごした静岡市に瀬名の地名が残ることは、家康が瀬名を愛していたことの証と思う。
    最後の将軍慶喜がすごしたことも因縁です。

  8. 静岡市に瀬名(発音は語尾が上がる)という地名があるが関係があるのかな?

  9. 多分、路線対立だけではなかったでしょう。

    築山殿は大大名・今川義元の姪という血筋からその家臣も同然だった徳川家康を見下していて、それを信康にも平気で口にする程だったのでしょう。

    そして路線対立ですが、家康から徳川家を奪った後は武田家の力を借りながら力を蓄えて、いつかは信長を倒すつもりだったものと思われます。

    家康としては、殺られる前に殺るしかなかったのでしょう。

    私は、家康主従を見下した挙げ句に裏切りの末に成敗される、悪女で因果応報な築山殿をいつかの大河ドラマで見たいですね。

    但し、徳川家を守るために自ら人柱になる築山殿も、それはそれで魅力的ではありますが。

  10. 築山殿はてっきり家康が人質という弱い立場から渋々
    今川から受け入れた奥方かと思っていたが、実際には
    唯一の正室として心を許す仲だったのかもしれない。

  11. のっぶが家康の忠誠を試すために殺させたんでしょ。武田に内通したとの疑惑で。

  12. 以後、家康は独身をとうした。そこに目をつけた秀吉は自等の妹を家康の正室に?、ついに義理の弟として秀吉の軍門に。秀吉の母は何か困ったときは家康殿に相談せよと遺言した。

  13. 後に酒井忠次が、息子の知行増加を願い出たところ家康から
    「お前でも子供がかわいいか」
    と嫌味ともとれる返事をもらったとか。

  14. 家康は初恋の人瀬名の方と結婚できた時は嬉しかったし信康が生まれた時も嬉しかったと思う、今川義元が桶狭間の戦いで油断せずに信長に勝利して天下を取っていたら幸福に暮らせたはずどうする家康で最後の方で令和の時代に生まれ変わり幸せになる結末を用意して欲しい。

  15. 実際、路線対立等から親子で対立するのは武士の歴史を観ると平安時代からあるからなぁ…

  16. 私は信康と瀬名は武田と通じていたと思います。そうだとすると家康の処断が理解できると思います。

  17. 歴史の真実は、わかりません。築山殿が瀬名姫と知りました。主従関係で命を投げ出す、それが戦国、家康様の心はイカばかりだったでありましょう!?

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