
英語で「軽くつつく、そっと押す」を指す「ナッジ」理論が近年注目を浴びている。デザインを活用したり、文章に少し手を加えたりするだけで人々の行動を変えられるという理論で、整列を促す足型ステッカーを床に貼っているのも身近な例の1つだ。こうしたナッジ理論の活用は、医療現場に於いてもミス防止や業務効率化、及び職場のゆとり確保に寄与したという事例が有る。着実な効果が得られる為には実際どの様に導入すれば良いのか。医療現場でのナッジの活用に取り組んでいる慶應義塾大学看護医療学部・大学院健康マネジメント研究科准教授の小池智子氏に、具体的な導入例や効果等について講演して頂いた。
挨拶
三ッ林 裕巳氏 「日本の医療の未来を考える会」国会議員団代表(元内閣府副大臣、医師)
先日の総選挙で返り咲きを果たし、当会の代表を再び務める事になりました。改めて日本の医療、介護、社会保障制度が国民に受け入れられ、応援して頂ける形に変えていく必要が有ると感じています。今国会でもOTC類似薬の保険適用除外や、出産に際する保険適用に関して議論されます。医療現場の理解を得られる十分な議論が必要だと思います。
古川 元久氏「日本の医療の未来を考える会」国会議員団メンバー(衆議院議員、国民民主党代表代行兼国会対策委員長)
今、食料品の消費税率をゼロにすべきかとの議論がされていますが、同様に医療に掛かる消費税についても議論が必要ではないでしょうか。昨年12月の大型補正予算では医療機関への支援が盛り込まれましたが、病院等が直面している根本的な問題は解消されていないのが実状です。課題解決に向け、会の活動を通じ党派を超えて協力していきます。
鈴木 馨祐氏 「日本の医療の未来を考える会」国会議員団メンバー(衆議院議員、前法務大臣)
今回から当会に参加する事になりました。国会内では、医療問題と言えば財政の議論に偏りがちですが、国民の命を守る為、医療の質をどの様に向上させていくかが重要な視点だと思います。その為には先端医療を含めたイノベーションも欠かせません。現場の声に耳を傾けながら、30年、50年先を見据えた、堅実な議論を進めていきたいと思います。
東 国幹氏 「日本の医療の未来を考える会」国会議員団メンバー(衆議院議員、自由民主党副幹事長)
今回、厳冬期の選挙を初めて経験しましたが、当選を果たす事が出来ました。地元を周回し、過疎の進行により地域医療の維持が課題となっている事を改めて実感しました。そうした中、公立病院の役割が大きくなっているものの、経営は厳しく、市場原理の中で継続が困難な拠点病院も少なくありません。地域医療を支える対策が求められています。
講演採録■複雑な思考無く行動する仕組み
ナッジは、認知科学と経済学を融合した行動経済学を基盤とした理論です。「人は常に最適な合理性に基づき行動する訳ではなく、時間や認知能力の限界、習慣等によって誤った判断を下す為、限られた範囲内で合理的と判断する」という「限定合理性」が1940年代に提唱され、心理学や認知科学等の成果も踏まえて発展してきました。現在は、この限定合理性等を踏まえて、人がどの様に選択し、意思決定するかを解明する理論として普及し、幅広い分野でナッジが活用されています。
ナッジ理論を普及させたのは、米国の経済学者・リチャード・セイラー教授です。教授はナッジを「人々の選択の自由を保ちつつ、強制ではなく、熟考すれば、きっと選ぶであろう選択肢の方に、そっと背中を押す様な働き掛け」であると定義しました。人が行動する過程で面倒そうだと感じる部分を改善し、自然に好ましい行動を促す為の手法です。
医療現場等で業務改善を図る時は、最善策を学び、浸透させるという方法が一般的です。問題を分析した後、マニュアルやチェックリスト等を作成して解決策を示し、教育訓練を行って確実な実施を図っています。しかし、どんなに完璧なマニュアルを作成しても、「忙しいから」と実行を怠ってしまう。「分かっているものの出来ない」という事態が度々起こります。
24人の放射線科医に、CTの画像を見せて肺結節の検出作業をして貰うという実験の例が有ります。画像の中にゴリラのイラストが挿入されていたのですが、20人がゴリラに気付きませんでした。しかもその中の12人は、イラストが含まれている部分を見ていたにも拘わらず見逃していた。これは、認知心理学の分野ではよく知られている「非注意性盲目」という現象です。視野に入っているのに、特定の課題に集中した結果、ゴリラを認知する事が出来なかったのです。
医療現場では高度な集中力が求められる場面が数多く発生する為、マニュアルの順守が不十分なケースも度々生じます。結節は白く映るので、医師は白い部分を目で追っていく。この為、黒いゴリラのイラストは認識出来ない。目に映っていても、黒い物に注意が向けられず、認知出来ないという事です。
又、人は頭の中で理解していても行動に移せない事が有る。「1度位なら手を洗わなくても良いだろう」と、手順を怠るケースも生じます。こうした認知に関わる脳の特性を踏まえ、改善を図るのがナッジ理論です。
人には「直感型思考」と「複雑型思考」の2つの情報処理システムが在ります。直感型は、「速い思考」で判断して行動に移し、複雑型では着実な情報収集と分析による「遅い思考」で判断を下します。日常生活に於ける情報処理の9割以上が直感型です。毎回何かを考えた上で行動すると疲弊するので、過去の経験や習慣に基づく事が多い。ところが、直感型だけでは、状況の変化や不都合が生じた時に対応出来ない。その時は複雑型を用いて情報収集と分析の上、行動を修正します。複雑型は脳のエネルギーを多く消費する為、この様に必要時のみ働かせます。
ナッジでは、認知負荷の少ない直感型思考に働き掛け、成果を目指します。一方、病院で内服投与事故等を防ぐ対策で圧倒的に多いのは、教育やマニュアル作成、チェックリストの活用といった複雑型思考に働き掛けるものです。しかし、ゴリラのイラストの実験で分かる通り、思考力を集中させたところでミスは避けられません。そこで、ラベリング等で識別を容易にしたり、アラート機能や照合システムを導入したりする等の工夫で、直感的に正しい判断をし易くすれば、負荷を掛けずに成果を導く事が出来ます。
■思考不要な行動だから疲れない
ナッジを使った仕掛けには「情報提供型」と「仕組み型」の2つが有ります。情報提供型は、情報の内容を工夫する他、サインやシグナルを使用します。仕組み型は、環境設計の変更により行動に移し易くなる仕組みを設定します。こうした仕掛けには「アフォーダンス理論」「行動経済学の諸理論」「環境デザイン設計」の3つを活用します。
アフォーダンスとは「物の形や環境、デザインが人の行動を自然に引き出す」という理論で、例えば、ドアの取っ手のデザインを工夫して、直感的に押すか引くかの行動を容易に導くという形で応用されています。加えて、デザインで本能に訴えるというアプローチも有ります。男性トイレの小便器に的を描くだけで、単に注意を呼び掛けるポスターを掲出するより尿の飛び散りを防ぐ効果が期待出来るのです。
行動経済学の諸理論の内、医療現場では「初期値設定」が良く使われます。これは「人は最初に示されたものに従い易い」というバイアスを利用した手法です。
HIV患者の多いアフリカでは、様々な機関が妊婦に対し妊婦健診の際に無料でHIV検査を行っていますが、従来はHIV検査の受診率が60%台でした。そこで、原則全員受診とし、希望しない人は申し出るという「オプトアウト方式」を採用したところ、HIV検査の受診率が80%を超え、或る国では99%となりました。最初から受診が前提とされている方が受診率が上がる事が実証されたのです。
環境デザイン設計については、理論面に於いてよく知られる例に、坂の在る街と糖尿病リスクの関係が有ります。坂の多い街と平坦な街を比べると、糖尿病の罹病率は変わらない一方、坂の多い街は重症化し難いという結果が出た。日常的に軽度な負荷を掛けて歩く環境の方が、自然に健康を後押ししているという事です。実際の導入事例として有名なものが、英国の減塩プロジェクトです。個人に減塩を求めず、食品メーカーに対して製品に含まれる塩分の目標値を設定した結果、心疾患等の死亡者数が減少し、医療費も毎年約2600億円削減出来ました。こうした手法は個人の努力や意志力が不要な為、疲弊する事無く持続するのです。
ナッジを設計する際のポイントとして、私は「行動のロケットモデル」を活用しています。ロケットは、摩擦や抵抗に負けると大気圏まで飛び立つ事が出来ません。十分な燃料も必要です。同様に、行動を変える為には、仕組みを簡素化して現場の人々の行動の摩擦・抵抗を減らし、魅力的且つ社会的要素を加える事で燃料に当たるモチベーションやエネルギーを高めるといった工夫が重要となります。
例えば医療現場では様々な感染防護用品を身に着けますが、忙しい時はその複雑さから着用順序を間違えたり着用そのものを怠ったり、つい疎かになる事が有ります。そこで、或る医療機関では、装着順に並べてテーブルの上に置きました。これならテーブルの周りを1周するだけで正しく装着出来ます。
又、「手洗いをしよう」というポスターのメッセージでは石鹸消費量が殆ど変わらなかったのに、「手洗いは病気から患者さんを守ります」としたところ、消費量が大幅に上昇したという事例も有ります。これは、自身の行動が他者に役立つ事を気付かせるという燃料に当たる仕掛けです。
最近は、日勤者と夜勤者でユニフォームの色を変える病院が増えています。夜勤者の中に日勤者が1人混じっていると違和感が生じ、日勤者は恥ずかしいという気持ちになり、周囲も助けてあげようという気遣いが出来る他、残業削減も期待出来ます。
注射針等の廃棄・分別が徹底されずにいた或る病院では、医師名を記載した一覧表を作り、適切な処理を行った医師名の上に「ありがとうシール」を棒グラフ状に貼っていきました。結果、後片付けが劇的に改善しました。
清潔戸棚の両開きの扉が度々開けっ放しになっていた別の或る病院では、扉の両側にアニメキャラクターのイラストを貼り、ぴったり閉めると2人が一緒になる仕掛けを設けました。「扉を閉めて」ではなく、「2人をくっ付けて」と言えば角も立ちません。

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