今年の灘中学校の国語入試に、ある詩が出題されました。
パレスチナ・ガザ地区の子どもの目線で書かれた詩です。
戦火の中で、もし自分が亡くなったとき、誰だかわからなくなってしまわないように、「足に名前を書いてほしい」と母親に頼む。
そして、「自分は数ではない、ちゃんと名前がある」と訴える。
読んだ瞬間、言葉が胸にささって、考えさせられる・・・、そんな詩でした。
この詩が出題されると、XをはじめとするSNSはすぐに大きな反響をよびました。
「政治的なメッセージを入試に持ち込むべきではない」と眉をひそめる声がある一方で、「入試問題を読んで初めて泣いた」「こんな詩を選ぶとは、さすが灘」「自分の子どもにも読ませたい」という声が次々と広がり、話題になりました。
ニュースサイトでも取り上げられ、「灘中 詩」という検索ワードがトレンド入りするほどでした。
私はこの詩を読んだとき、まず一人のママとして、胸がぎゅっと締め付けられました。
と同時に、日本トップの進学校である灘中が、なぜこの詩を選んだのか、と考えました。
ただ単に「正解を出す力」ではたちうちできない問い
灘中の入試問題は、長年にわたって「難問」として知られています。
しかしその難しさは、単純な知識量や処理速度ではありません。
灘が問い続けているのは、もっと根本的な力です。
この詩を題材にした設問を想像してみてください。「この時の主人公の気持ちを答えなさい」
そう問われたとき、塾のテキストで解法パターンを覚えるだけで育った子どもと、世界に目を向けながら自分の頭で考える力をつけるよう育った子どもとでは、答えの深さがまるで違うでしょう。
「足に名前を書いてほしい」という言葉が生まれた背景。
爆撃で亡くなった子どもたちの遺体が、身元不明のまま”数”として扱われてしまう現実。
「自分には名前がある」という言葉の裏側にある、ひとりの人間としての尊厳への叫び。
こうした文脈を想像できる力は、問題集を解くだけでは身につきません。
本を読み、ニュースに触れ、大人と語り合い、自分とはまったく異なる誰かの人生に思いを馳せる——そういった日々の積み重ねの中でしか、育まれないものです。
「賢さ」の定義が、静かに変わっている
近年の中学入試の問題を見ていると、あることに気がつきます。
灘に限らず、難関私立中高一貫校の入試問題が、少しずつ変わってきているのです。
社会問題を扱う文章、正解が一つではない倫理的なテーマ、「あなたはどう思うか」を問う記述問題。
以前であれば「入試らしくない」と感じられたような問いを、難関校といわれる学校ほど積極的に取り入れています。
これはたまたまではないと思います。
ChatGPTをはじめとするAIが急速に普及した現代、「調べればわかること」「パターンで解けること」の価値は、相対的に下がっています。
知識を蓄え、素早く処理する力は、もはやAIのほうが得意な領域です。
だからこそ学校が、そして社会が求めているのは?
答えのない問いに向き合える力。 自分とは違う誰かの痛みを想像できる力。 世界の現実を直視しながら、それでも考え続ける力。
灘中がこの詩を選んだのは、その力を持つ子どもを求めているからではないでしょうか。
「やらされる勉強」の限界

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