――税理士・社会保険労務士の実務から見た、制度の「原則」と現場の「限界」

社会保険の「公平」とは何か

社会保険料は所得税と異なり、所得に関わらず同じ料率を負担する「定率負担」が原則です。この仕組みこそが社会保険本来の「公平」の姿であり、私もその意義は十分に理解しています。

所得税は稼ぐ額が大きくなるほど税率が上がる累進課税ですが、社会保険料にはそうした段階はありません。みんなで同じルールを守ることで制度を支える。しかし今、その正論だけでは語れない現実が迫っています。

10年かけて迫る「週20時間」の波

2025年6月成立の改正年金法により、賃金要件(106万円の壁)が撤廃され、企業規模要件も2027年から2035年にかけて段階的に撤廃されます。最終的には「週20時間以上働くかどうか」だけが社会保険の加入基準となります(参照:厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」)。

賃金要件の施行時期は公布日から3年以内(最長2028年6月)に政令で定められますが、すでに全国の最低賃金が要件を満たしていることから、早ければ2026年中にも施行される見通しです。

さらに、現在は「従業員51人以上」の企業に限られている規模要件も、段階的に撤廃されていきます。

施行時期
対象企業(従業員数)

現在(2024年10月〜)
51人以上

2027年10月〜
36人以上

2029年10月〜
21人以上

2032年10月〜
11人以上

2035年10月〜
規模要件完全撤廃

つまり、2035年にはすべての企業が対象となります。「うちは小さいから関係ない」と思っている経営者にも、この波は確実に届きます(詳細なスケジュールは厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」(PDF)を参照)。

「時間」だけで切り分けることの歪み

加入基準が「週20時間」に一本化されることで、時給が低い人ほど社会保険の対象になりやすいという逆転現象が起きます。

時給が高い人は週19時間に抑えれば社会保険の対象になりません。一方で、人手不足のなか時給を大きく上げられない中小零細企業のパートタイマーほど、週21時間を超えやすく、社会保険加入の対象となります。頑張って長く働いている人と、それを支えている企業が真っ先にコスト増の直撃を受ける。「時間」という一つの物差しだけでは、現場の多様な働き方を拾いきれないのです。

加えて、加入を避けるための「19時間契約」が常態化すれば、働く人の意欲も企業の成長も止まってしまいます。制度が新たな「壁」を生む皮肉な結果になりかねません。

本人の手取りばかりに偏る議論

現在の議論は労働者の手取り減少に集中しており、中小零細企業の負担増への配慮が決定的に不足しています。

税務と労務の両方の現場に立つ者として強く感じるのは、「雇う側の体力」への配慮が決定的に不足しているということです。

特にパート・アルバイトが労働力の中心であるサービス業、小売業、飲食業、製造業の中小零細企業にとって、対象者1人につき年間約17万円〜18万円(会社負担分)の法定福利費の上乗せは、利益率の薄い経営を直撃します。10人いれば年間170万円超。これは「コストアップ」の一言では片付けられない、経営の存続に関わる問題です。

助成金では救えない企業がある

今後の適用拡大に伴い助成金の拡充も想定されますが、そもそも助成金を申請できる状態にない零細企業が数多く存在するのが現実です。

国は既存のキャリアアップ助成金等に加え、今後も社会保険適用拡大への対応を支援する助成金の拡充を検討していくと見られます。しかし、これらの制度には構造的な限界があります。

助成金を受給するには、適正な就業規則の整備、残業代の正確な計算と支払い、労働条件通知書の交付など、労働関係法令を遵守していることが大前提です。つまり、助成金の「申請要件」そのものが高いハードルになっています。

現実には、就業規則を作成していない、あるいは多少の未払残業代が発生しているといった零細企業は珍しくありません。こうした企業は、助成金の存在を知っていても申請要件を満たせず、活用することができません。リソースに余裕があり、労務管理体制が整っている企業だけが恩恵を受けられる。

本来最も支援が必要な現場が、制度の入口で弾かれている。これが実態です。

厚生労働省は50人以下の企業向けに、新規加入の短時間労働者の保険料負担を3年間軽減する「保険料調整措置」を設けています。ただしこの仕組みも、事業主が労働者の負担分を肩代わりし、その追加負担分を制度全体で支援するというもの。企業の負担そのものを直接軽減する措置ではありません。

【提言】原則を理解した上での「暫定軽減率」

社会保険の「定率負担」という原則を理解した上で、2035年までの移行期間中、労使双方に「段階的な軽減率」を設ける時限的なクッションが必要だと提言します。

申請や審査が必要な助成金ではなく、保険料そのものを数年間かけて段階的に引き上げていく仕組みです。これなら事務体制が十分でない零細企業も、すべての労働者も、等しくその恩恵を受けることができます。

企業はその猶予期間を活用して、価格転嫁や生産性向上、適正な労務管理体制の構築に取り組むことができるはずです。

「定率」という原則を一時的に崩すことに抵抗があるかもしれません。しかし、制度の建前を守って現場が破綻しては本末転倒です。社会保険の上限(標準報酬月額の上限)が存在するように、移行期の下限に柔軟さがあってもよいのではないか。そう考えます。

経営の現場を守ることが、制度を守ること

社会保険制度の目的は、働く人の安心を支えることにあります。しかし、その安心を提供する土台は、雇用をつくり出している企業にほかなりません。企業が倒れれば、社会保険も手取りも、すべてゼロになります。

制度に血を通わせるために、今こそ「現場の痛み」に即した実効性のある議論が求められています。

よくある質問(FAQ)

Q. 社会保険の適用拡大はいつから始まりますか?

賃金要件(月額8.8万円=106万円の壁)は、早ければ2026年中に撤廃される見通しです(最長2028年6月まで)。企業規模要件は2027年10月から段階的に引き下げが始まり、2035年10月に完全撤廃されます。

Q. 106万円の壁がなくなると、加入基準はどうなりますか?

賃金要件が撤廃されると、社会保険の加入基準は「週の所定労働時間が20時間以上」かどうかに一本化されます。年収がいくらかに関係なく、週20時間以上働けば加入対象となります(学生は除く)。

Q. パートの社会保険料で、会社負担はどれくらい増えますか?

月額10万円(年収120万円)のパート社員1人あたり、会社負担は年間約17万〜18万円増加します(厚生年金・健康保険・子ども子育て拠出金の会社負担分の合計)。10人が新たに加入対象となれば、年間170万円超の負担増です。

Q. 従業員50人以下の企業はいつから対象になりますか?

2027年10月に36人以上、2029年10月に21人以上、2032年10月に11人以上、2035年10月にすべての企業が対象となります。2025年6月に成立した改正年金法で確定したスケジュールです。

Q. 助成金で企業の社会保険料負担は軽減できますか?

今後の適用拡大に伴い助成金の拡充も想定されますが、受給には就業規則の整備、残業代の適正支払い、労働条件通知書の交付など、労働関係法令の遵守が大前提です。就業規則がない、未払残業代が発生しているといった零細企業は申請要件そのものを満たせず、本来最も支援が必要な企業に届きにくいという構造的な課題があります。

Q. 厚生労働省の「保険料調整措置」とは何ですか?

50人以下の企業で新たに社会保険に加入する短時間労働者(標準報酬月額12.6万円以下)を対象に、3年間の時限的な保険料軽減措置です。事業主が労働者の負担分を肩代わりし、その追加分を制度全体で支援する仕組みですが、企業の負担そのものを直接軽減するものではありません。

記事監修

寺田 慎也(てらだ しんや)
税理士・特定社会保険労務士
寺田税理士事務所 / 社労士法人フォーグッド / 株式会社フォーグッドコンサルティング 代表

寺田慎也 税理士・特定社会保険労務士

【専門分野】
税務顧問、確定申告、税務調査対応、社会保険手続き、給与計算、労務相談、飲食業労務支援、助成金申請支援

【保有資格】
税理士、特定社会保険労務士

【組織体制】
創業75年の実績を持つ専門家集団。スタッフ20名、税理士4名・社労士6名(うち特定社労士2名)が在籍し、大阪・東京の2拠点で全国450社以上の企業をサポート。

【代表者の実績・メディア掲載】

テレビ朝日系列「羽鳥慎一モーニングショー」専門家として複数回出演(2024年5月・6月、2025年8月)
アイミツ「税理士と社労士が在籍するおすすめ事務所」実績部門 4年連続全国1位
中央経済社『税務弘報』にて連載執筆中「新・労務知識アップデート講座」
著書:『中小企業の人材コストは国の助成金で払いなさい』(幻冬舎、2018年)
著書:『雇用関係助成金申請・手続マニュアル』(日本法令、2020年)

※本記事の内容は2026年2月時点の情報に基づいています。今後の政省令等により詳細が変更される可能性があります。最新情報は厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」をご確認ください。


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