43歳となった現在もリングに立ち続けている格闘家の富松恵美さん。はつらつとした姿からは想像ができませんが、胸の腫瘍除去手術の影響でプロレスラーから格闘家に転身。その波乱に満ちた人生について語っていただきました。(全2回中の1回)

【写真】家族全員ヘビメタ好き!美人姉妹も揃った「ファンキー」な富松一家 ほか(10枚目/全13枚)

陶芸部から意外な理由で女子プロデビュー

── 女子プロレスラーとしてデビューし、43歳の今も現役格闘家として活動されています。もともと運動が得意だったのですか?

富松さん:漫画『SLAM DUNK』に影響されて、小学校のときはバスケットボールをやっていました。中学では、周りでやっている人がいなかったソフトテニス部に入部。格闘技に興味はあったのですが、学校に柔道部がなかったんです。

高校は市立船橋という運動が盛んな学校だったのですが、アルバイトをしたかったので文化部に入ろうと決め、華道部と陶芸部に入部しました。

── 華道部と陶芸部とは意外です!プロレスや格闘技にはいつごろ興味を持ったんですか?

富松さん:もともと家族が格闘技好きだったんです。母は特に女子プロレスが好きで、一緒に試合を観に行ったりしていました。テレビで「修斗」という格闘技の団体の試合を観て、衝撃を受け、すっかりハマったこともありました。バイト代でチケットを買い、最前列で観たりして。

── 10代のころから、すごくアクティブだったんですね。

富松さん:学校で休み時間にプロレス専門誌を読むような女子高生だったので(笑)。まだ学生のころって、地方の試合までは観に行けないじゃないですか。でも、雑誌の記事を読めば、映像を観なくても試合のリアルさが伝わってくることに感動して。文章を書くのも好きだったので、格闘技の雑誌の仕事をしたいと思いました。それで、マスコミ系の学部がある大学に行こうと考えたのですが、ちょうど家業の経営が厳しくなったころで…。しかも志望していたのは私立の大学だったので、学費が高く断念せざるを得ない雰囲気でした。

そんなとき、『サムライTV』という格闘技の専門チャンネルでジャガー横田さんが女子プロレスのオーディションの告知していて。もともと自分でも格闘技をやってみたいと考えた時期があったので、これも何かの縁だと思い、オーディションを受けてみることにしたんです。

── ご両親からの反対はなかったですか。

富松さん:むしろ応援してくれましたね。でも、高校で文化系の部活に入ったので、運動はあまりやっていなかったんです。オーディションのために走ったり、プロテインを飲んだりして体力づくりをして臨みました。

── オーディションの様子は覚えていますか? 

富松さん:なんと応募者が2人しかいなかったんです。しかも一緒に受けた人が大学を浪人するとかで結局いなくなって。そのあともう1人、大阪から受けに来た人も1週間たらずで夜逃げしました。ジャガー横田さんはめちゃくちゃやさしかったのですが、一度だけ、スクワットをするように指示されたのに忘れられ、2000回くらいスクワットを続けるハメに。「早く止めて…」って思いながら大声で数えてましたね。

19歳でプロレスラーとしてデビューしたころ

── 脱落者が出るほど過酷だったんですね。特に何がつらかったですか?

富松さん:体力面よりも精神面のほうが大変でした。寮ではいちばん下っ端だったので、毎朝の準備や食事のちゃんこの用意などは全部私の仕事だったんです。先輩たちのいろんな要望にもこたえなければならず…しんどい日々でした。

プロレスデビューも3回の手術で引退を余儀なくされ

── つらい寮生活を乗り越えて、2001年にデビューされました。

富松さん:2001年4月に入門して、7月にデビューしました。最初のころ、母が観に来てくる予定の試合前に、先輩から「お母さんはどのへんに座ってるの? 」って聞かれたんです。場所を伝えたら、試合中にリング外の母がいる場所の近くに連れていかれ、目の前でパイプ椅子で殴られて。きっと親の前で殴られるのを見せたかったんでしょうね…。先輩なりのデビュー祝いだったんだと思います(笑)。

── 手荒い歓迎ですね…。そんなデビュー直後から今度は病気に苦しめられたそうですね。2002年11月の試合を最後に現役続行を断念、2003年4月にプロレスを引退されたと聞いています。

富松さん:デビューした年に胸に腫瘍が見つかって、検査を受けたら葉状腫瘍という症状でした。まだ20代だったので年齢的にはがんではないという診断だったけれど、細胞をとらないとわからないと。良性でも腫瘍をすべて取り切らないとまた大きくなる可能性があると言われ、手術で乳腺も取ることになりました。10時間近い大手術だったので、親はかなり心配だったようです。私のほうは、全身麻酔だったので目覚めたら終わっていたという感じでした。

乳腺をとってしまうと、胸がぺちゃんこになってしまうんです。年配の女性だとお腹の肉を移植することができるのですが、私の場合はまだ若かったので、お腹を切ることには抵抗があって。そこで左の広背筋をはがして胸に移植することになりました。その後遺症で、いまでも背筋のトレーニングをすると、胸がびくびくすることがあります。

── 大変な手術を経験したのですね。経過はいかがですか。

富松さん:再発はしていないです。ただ、背中の広背筋を左だけ剥がしているので、右側と感覚が違います。あとは座っているだけで疲れることも。でも、当時は早期発見できたので治療法があってよかったと前向きにとらえていました。

── 手術を経て、2005年の夏ごろには格闘技のジムに通い始めたとか。

富松さん:体力が戻ったタイミングで、柔術を扱うジムに入りました。手術後しばらくは、身体が思うように動かなくて。プロレスをやっていてアスリートみたいな気持ちはあるのに、身体がぜんぜんついていかない。ぜい肉もついてきて、危機感がありました。広背筋を剥がしているため受け身が取れなくなり、プロレスの継続は難しかったのですが、やっぱり格闘技が好きで。何か続けられないかと考えて思いついたのが柔術だったんです。本当は総合格闘技がやりたい気持ちもあったのですが。

── もう一度格闘技を始めたときは、家族からは心配されませんでしたか?

富松さん:もう大人だったので、何も言われなかったですね。そのときは、高校時代から仲がよかった友達と一緒に見学に行って入会したので、家族には習いごとのひとつと思われていたかもしれません。 

諦めきれず格闘技の大会に参加。腸管破裂の大ケガを負い

── 大きな病気をして手術を繰り返したあとですから、さぞかし練習も過酷だったと想像します。

富松さん:そうですね。家族で温泉に行ったときに、「虐待されてるって思われるよ」って言われるほどアザができてしまって。自分でサンドバッグを蹴っただけでも足にアザができちゃうんですよ。アザが多すぎて「キリンみたい」って言われたこともあります。

道着姿で練習中の1枚

── それでも続ける意思があるのがすごいです。なぜ続けようと思ったのでしょうか。

富松さん:プロレスラー時代の先輩で、デビュー戦のパートナーでもあった亜利弥’さんがプロレスと格闘技を両立されていたんです。セコンドを務めさせてもらったこともありますし、試合前に料理を作ったらたくさん食べてくれて、「試合前の計測で計量オーバーしちゃったよ」なんて言われたこともありました。2018年に乳がんで亡くなったのですが、大好きな先輩でした。自分も先輩のようにできるところまで続けたいという気持ちがあります。

── そんな思いを持ちながらアマチュアとして始めた格闘技で、試合に出ることになったきっかけはなんでしたか?

富松さん:習い始めてみると、実力を試したくなるじゃないですか(笑)。そう思っていたころ、2005年の11月に所属していたジムから大会に出ないかと誘われたんです。最初の試合はポイント差で負けたのですが、そこから火がついて。親の仕事を手伝いながら仕事が終わったら毎日ジムに通いました。当時は、「もっと強くなりたい!早くジムで練習したい!」という気持ちが強かったです。

── 2006年10月にはプロデビューも果たされました。順調に成績を伸ばしていた2008年、試合中に腸管破裂の大ケガを負ったそうですね。

富松さん:試合中に相手の蹴りが腹部に入ったんです。2ラウンドの終盤で普段とは違う痛みがあり、ジムの代表がリングにタオルを投げ込んでくれて(注:リングにタオルを投げ込まれると棄権とみなされる)。 試合後、腹痛を感じながらもいったん着替えていたら、猛烈な吐き気が突然襲ってきて。苦しそうな私を見て、母が「これはただごとではない」と救急車を呼んでくれました。

── そんなことがあったんですね…。

富松さん:しかも、搬送先が見つからず病院をたらい回しの状況に…。受け入れ先の病院が見つかったのですが、病院に着くと「腹部から出血しています」と言われ、緊急手術になりました。ただ、私は内心「どうしよう。明日、仕事なのに」って考えていました。

「帰宅していたら命はなかった」それでも辞めたくない娘に父は

 ── それほどまでの大ケガをしている状況で、そんなに冷静にいられたんですか?

富松さん:これまでも胸の手術を3回経験しているので、ある意味慣れていたというのはあったと思います。手術は無事成功しましたが、家族は医師に「家に帰っていたら命はなかった」と言われていたそうです。

手術後はとにかく痛みがすさまじかったです。数時間おきにしか痛みどめは打てないのですが、痛すぎてその許容量を超えるほど打ってもらった記憶があります。それなのに、ケガをした試合の日には大好きなXJAPANが東京ドームで行うチケットの購入権利が当選していたんですよ。久しぶりのライブだったので、どうしても観たくて、入院している病院内のコンビニで点滴をしながらチケットを発券した思い出があります(笑)。

── 家族は、格闘技を続けることに反対はされなかったですか?

富松さん:母は「辞めてほしい」と言っていました。でも父は活動をあと押ししてくれて。父は昔、ギタリストとして音楽活動のためにアメリカに行こうと思っていたそうです。でも、母が「ギターをとるのか、私をとるのか」と迫って、ギターを諦めて母と結婚しました。そのときの後悔が今でも少し残っているようで。だから父は私に「明日死んでしまうかもしれないし、後悔がないようにおまえの好きなことをやれ」と言ってくれた。父のことは尊敬していますね。

プロのギタリストの妹が試合前に演奏でエールを

── 家族の支えがあって、格闘技を続けているのですね。

富松さん:そうですね。母も心配はしていたと思うのですが、応援してくれています。ギタリストの妹も、私の試合のときに演奏をしてくれて。「負けるんじゃないぞ」って気合を入れられました。でも母だけは今でも「もう歳なんだから、早く辞めたら?」って言ってきますけどね(笑)。

3度にわたる胸の腫瘍の手術にも負けず、格闘家として再デビューを果たした富松さん。腸管破裂の大ケガを経てなお現役を続けられているのは、同じく格闘家で介護士でもある夫のおかげだそう。公私ともに支えられる存在がモチベーションとなり、43歳になった今も試合に立ち続けています。

取材・文/池守りぜね 写真提供/富松恵美

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