良い状態が悪い状態に戻ることを「元の木阿弥(もとのもくあみ)」といい、現代でも使われていますが、この元の木阿弥の語源になった父親を持ち、「洞が峠を決め込む」の言葉の由来になった信長の野望に登場する戦国武将をクイズ形式で紹介します。父親が亡くなった当時、当主の座を継いだものの2歳だったために木阿弥という父親そっくりの影武者が代理で当主だったと伝わっています。当主代理をつとめた後、木阿弥はただの坊主に戻ったため「元の木阿弥」と呼ばれるようになりました。
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信長の野望・大志で最弱ステータスの男↓
●筒井順慶
筒井順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、戦国大名でした。得度して順慶と称する前は、藤勝(ふじかつ)や藤政(ふじまさ)と名乗っていました。彼は現在の大和(奈良県)の大和筒井城主、後に大和国郡山城主として知られています。彼の事績は『多聞院日記』に詳しく記述されています。
順慶は茶湯や謡曲、歌道などの文化面に秀でた教養人であり、僧侶でもあったため仏教にも深い信仰を持っていました。大和の寺院を保護する一方で、鉄砲鋳造のために釣鐘を没収したり、興福寺の寺僧を処罰したりと、信長政権下では必ずしも寺社の保護ばかりを行っていなかったとされています。
順慶は特に松永久秀とはライバルともいえるほど争い、戦った生涯でした。一説によると、松永久秀が信長を裏切ったのは筒井順慶がいたともいう人がいるくらいです。巧みな外交戦術で信長や秀吉に従属し、大和を松永久秀から奪い返し、最終的には統一しました。
順慶の家は大名としては滅亡しましたが、現在も順慶の傍系子孫と伝えられる家が存在しています。順慶の養子である定慶の弟である順斎(福住順弘の次男)は徳川家康に仕え、旗本1千石となり、家名は幕末まで続きました。幕末には日露和親条約の交渉を行った筒井政憲(ただし久世氏の出身で、養子として筒井氏を継いだ)も末裔として知られています。
江戸期の軍記や説話には、順慶の息子である順正が存在したという記述もありますが、史実としては疑わしいものもあります。
また、順慶に関する逸話として、定次が幽閉中に大坂夏の陣で射られた矢軸に「羽柴伊賀守定次」という墨書きがあったことから、内通の疑いがかけられて切腹させられたという話もありますが、お預け幽閉中であったため、この逸話は信憑性に疑問があります。
信長が本能寺で討たれた後、羽柴(豊臣)と明智両者を比べてどちらにも使ず自分に有利な方につこうとして形勢を見守ることを「洞が峠を決め込む」という言葉は、当時の順慶の様子からそう呼ばれるようになりました。なお、動画で述べたように洞が峠にはおらず、創作であり、実際には進軍をやめて城にいたと伝わっています。最終的に順慶は豊臣方についたのですが、迷いに迷って遅参したために秀吉に怒られて体調を崩したと伝わっています。
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2 Comments
先日観たカイジのエスポワール編で「元の木阿弥」という言葉が使われたので緊急で動画にしました。カイジを観た時に探してみて下さい!(Youtubeあるあるの「緊急で動画」をいいたかっただけです)
筒井は父子とも矢早死に
子孫は筒井康隆と思うと楽しい
洞ヶ峠に居たのは光秀側と