『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』は、国民的RPG「ドラゴンクエスト」シリーズにおいて最も賛否両論を巻き起こした異色作であり、それゆえに孤高の存在だ。

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仮に、「ドラゴンクエスト」シリーズにおける「勇者」を「人々を救済しうる存在」と定義するならば、オリジナル版「VII」が描いたのは、むしろ「すべてを救うことはできない」という冷徹なまでのリアリズムだった。主人公たちの力には限界があり、抗いきれない運命の奔流が彼らを翻弄する。そこには常に、拭いきれない挫折感と無力感が横たわっていた。

「VII」においてプレイヤーを待ち受けているのは、過去と現在の残酷なまでの断絶だ。過去の世界でどれほど悲劇に抗い、問題を解決したとしても、現代に戻れば人々の想いは風化し、教訓すら忘却の彼方にある。短編形式で積み重なる悲劇の連鎖は、「勇者であってもすべての運命を変えることはできない」という事実を冷徹に突きつける。それは従来の冒険活劇よりも自然主義文学のそれに近く、個人の力では抗いようのない「宿命」の巨大さを描くものだったと言えるだろう。

しかし、それでも主人公たちはニヒリズムに陥ることなく悲劇に抗い、苛酷な結末を見届けて日常へと回帰していく。そこには、やりきれない「徒労感」と、救えないからこそ輝く「人間賛歌」が同居している。これはシリーズが「IV」以降内包してきた「勇者という存在への批評性」の極北ともいえる、この「救済の限界」を描ききった点において、オリジナル版は唯一無二の輝きを放っていたと筆者は高く評価している。

2000年のオリジナル版発売から26年の時を経て、この孤高の怪作は『ドラゴンクエストVII Reimagined』としてリメイクされた。筆者が目にしたのは、副題の「Reimagined」が示す通りの、現代的な価値観による徹底的な「再構築」だった。

本作を端的に表現すれば、きれいに舗装された高速道路を駆け抜ける快適なドライブ、悪く言えば、映画を早送りで消化してあらすじを追うような「倍速視聴」の感覚だ。

そのプレイフィールは、「新作をプレイしている」と筆者が評価したHD-2D版『ドラゴンクエストI&II』とは対照的で、むしろHD-2D版『ドラゴンクエストIII』のようなアプローチの系譜にある。すなわち、新たなアプローチの採用ではなく、あくまで「リメイク」として現代的な「遊びやすさ」と「カジュアルさ」への徹底的な最適化、そしていくつかの追加要素からなっている。

かつてあったリソース管理、立ちふさがる強敵、全滅の恐怖、石板の探索といった「旅の苦労」は丁寧に取り払われ、プレイヤーは悲劇の舞台を安全な車窓から眺める「ツアー客」となる。現代的な時間感覚に最適化されたこのアプローチは、果たして「VII」という重厚な作品の正当進化と言えるのか。以下では、オリジナル版『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』を愛好しているものとして、その変容をみていこう。

世界にたったひとつの孤島から始まる、再構築された冒険

まずは「Reimagined」の基本的な仕様と、オリジナル版からの主な変更点について整理しておきたい。

物語の舞台は、世界にたったひとつしかない孤島「エスタード島」だ。魔物の脅威もなく、平和そのものの世界である。主人公は漁師の息子であり、親友であるキーファ王子とともに、まだ見ぬ世界への憧れを抱き、「冒険ごっこ」に興じる日々を送っていた。そんなある日、ふしぎな「石版のかけら」を発見したことから冒険の幕が開く。集めた石板を神殿の台座にはめ込むと、見知らぬ土地へと飛ばされ、やがて少年たちの好奇心は、この世界の真実を明らかにする壮大な旅路へと繋がっていく。

本作はプロットやシナリオこそオリジナル版を踏襲しているが、その構成には現代的な取捨選択が入っている。オリジナル版の「クレージュ」、「リートルード」、「プロビナ」などは削除されており、「ダイアラック」など一部の町はメインストーリーから切り離され、任意に訪れるサブシナリオとして位置付け直されている。

またオリジナル版で煩雑だった往復が必要な場面や、フラグ管理が見直されている。このほか一部シナリオはニュアンスが違いがあり、追加シナリオもある。たとえば体験版でもプレイ可能だった序盤の町である「ウッドパルナ」では明確な分岐が用意されており、プレイヤーの選択次第で悲劇的な運命を回避することもできる。筆者のクリアタイムは約40時間強であり、リメイクにあたってエンディングまで完走がしやすいように全体のボリュームも調整されている。

物語の再構成にあわせ、ビジュアル表現は一新されているのも特徴だ。3Dでのカメラ移動はそのままに、特筆すべきは、シリーズ初となる「ドールルック」の採用だ。これは鳥山明のキャラクターデザインを人形のような3DCGへと落とし込み、フィールドやダンジョンもジオラマ的な質感で表現するものである。この独特の質感は、オリジナル版の随所に挿入されていたムービーシーンの基調を、現代の技術でプレイアブルな形として再現したものと評価できるだろう。

戦闘システムはシンボルエンカウントを採用しており、フィールド上を歩き回るモンスターたちの愛らしい挙動を眺める楽しさがある。特筆すべきは、自分よりレベルの低い敵であれば戦闘画面に移行せず、フィールド上のアクションだけで撃破できるシステムが導入された点だ。これは単に敵の出現を抑える「トヘロス」とは異なり、移動の流れを止めずに敵を排除できるため、探索のテンポを損なわない優れたシステムと言える。

加えて、通常の戦闘におけるオートモードの実装や、目的地を示すアイコン表示はもちろん、宝探し、転職、ルーラの仕様も快適になっている。ルーラはダンジョン内など「どこからでも」使用可能なのは近年の仕様だが、これに加えて従来のリスト選択だけでなく、視覚的なマップ上からスティックを動かすと、マップ上にカーソルが出現して直感的に行き先を選べるようになっている。こうした現代的なプレイアビリティへの配慮は、本作の随所に徹底されている。

加速するテンポと、構造的な「緩急」の欠如

本作のストレスのないテンポ感は、ある側面では現代的な最適化として肯定できる。オリジナル版のあの長大な物語を、現代のプレイヤーが許容しうる約40時間強という尺に収めるためには、この大胆な圧縮は不可避な処置だったとも言える。

だが、プレイの快適さと、物語の「緩急」は別問題だ。そもそも「VII」は過去の町で悲劇を解決し、現代に戻ってその変化を確認するという特有の繰り返し構造を持っている。これは作品の大きな魅力である一方、延々と繰り返されることでマンネリや「中だるみ」を生みやすく、オリジナル版が抱えていた構造的な欠陥でもあった。本作の高速なテンポは、この作業感を表面上は緩和しているものの、課題を根本的に解決するには至っていない。むしろ、滞りなくサクサクと進むがゆえに、この単調なリズムの繰り返しがより際立ってしまっているように思えた。

またこれもオリジナル版の問題点だが、始まりの島から最初の異世界の始まりを「第一幕」、石板世界を巡る長い旅路を「第二幕」、そして異変後の世界を「第三幕」とするならば、本作の構成上のバランスはあまりにも不均衡だ。物語の大部分を占める第二幕が不釣り合いなほど長大で平坦である一方、核心に迫りもっとも盛り上がるはずの第三幕は、あまりにも終盤に押し込まれすぎている。

「Reimagined(再構築)」を冠するのであれば、オリジナル版から引き継がれたこの構成の「緩急」にこそ、さらなる踏み込みを期待したかったのが本音だ。

たとえば、第三幕の展開を前倒しにするような再編したり、石板の世界をひとつずつ順番に攻略していくリニアな構成を改め、複数の世界が同時並行で展開するような大胆な構造改革の余地はあったように思える。たとえば第四幕を配置して、そこに既存の石板の世界を配置するなど、そうしたピークを分散させる試みがあれば、中盤のマンネリも解消されたはずだ。

現状では、長い旅路の果てに終盤の展開だけが急ぎ足に感じられ、物語の余韻を深く味わうための「間」が不足している印象は拭えない。快適なプレイフィールを実現したからこそ、その物語の構成においても、直線的な単純さを回避していればという惜しさが残る。

残されたリソース管理は実質的に「ゴールド」のみ

かつての伝統的な「ドラゴンクエスト」シリーズにおいて、ダンジョンは「消耗戦」の場だった。尽きかけるMPや、底をつく薬草といった緊張感のなかで、プレイヤーはいかに資源を選択して最深部を目指すかに知恵を絞っていた。一方で、昨年のHD-2D版『ドラゴンクエストI&II』は、道中のリソース管理を簡略化し、「ボス戦」の戦略性を重視し、そこにいたる準備とリソース活用に特化した設計だったと言える。

対して、本作の道中における緊張は極めて緩やかだ。通常設定の難易度で戦闘は淀みなく進行し、実態としては本作はデフォルトで「イージーモード」といえる。加えて、レベルアップ時やセーブポイントでの「HP・MP全回復」という仕様が、その傾向を決定づけている。かつてのようにMPの枯渇に怯え、限られた資源のやりくりに頭を悩ませる時間は必要ない。たとえダンジョンの奥地であっても、プレイヤーは常に万全に近い状態で戦うことができる。

もっとも、RPGとしての戦略性が完全に失われたわけではない。特に終盤のボス戦や隠しダンジョンにおいては、生半可なパーティ編成では太刀打ちできず、職業の組み合わせや装備の吟味が不可欠となる。前述したように、HD-2D版『ドラゴンクエストI&II』はボス戦に特化させたが、本作では「終盤」から「おまけ要素」に特化した形となる。

実際のところ、道中の緊張感がなくなったことで、プレイヤーが管理すべきリソースは実質的に装備の売買における「ゴールド」だけが残った形のように感じた。本作はアイテムが具体的なグラフィックとして視覚的に表示されるため、収集する楽しさもあり、これはジオラマのような本作の世界観とも非常に相性がよい。

難易度設定が浮き彫りにするジレンマ

ここでひとつの疑問や反論が浮かぶだろう。「戦闘が単調で手応えがないのなら、設定で難易度を上げればいいのではないか」という点だ。確かに本作には難易度変更機能が実装されており、メニュー画面からいつでも切り替えが可能になっている。敵のパラメータを強化して、歯ごたえのあるバトルを楽しむ余地は確かに残されている。

しかし、実際に難易度を上げてみると、本作が抱える構成上の課題に直面することになる。それは、前述した「第二幕」の圧倒的な長さと平坦さだ。石板世界を巡る長い旅路において、すべての雑魚戦でじっくりと戦略を練る必要が生じれば、結果として、攻略が遅々として進まない「徒労感」ばかりが際立つようになってしまう。

つまり本作は、プレイヤーに究極の二択を迫っているのだ。RPGとしての手応えがないが「デフォルトの難易度で、サクサク進む」か、それとも難易度を上げて戦略性は増すが、遅々として進まない「重厚な徒労」を選ぶのかである。このジレンマの原因は、やはり物語においても同様に、バトルにおいても「緩急」の欠如にあると考える。

「Reimagined」が本当に目指すべきだったのは、全体を一律に強化・弱体化させる難易度調整ではないはずだ――道中の探索は現在のサクサクとしたテンポを維持しつつ、要所となるボス戦や物語的に必然性のあるときだけ、プレイヤーが立ち止まって戦略を練らざるを得ないような「高い壁」を用意する。いわばHD-2D版『ドラゴンクエストI&II』に近い設計思想だが、実際、本作でもボス戦の直前に手動で難易度を上げれば、それに近い体験を得ることは可能だが、もとよりデザインとして組み込むべきだったように思えるわけだ。こうしたメリハリのあるレベルデザインこそが、この長大な物語を最後まで飽きさせず、かつRPGとしての充足感を持って完走させるための最適解だったように思えてならない。

その象徴的な例が、序盤の難所として知られる「からくり兵」だ。物語上、この機械兵士たちは人間を絶望に追い込む脅威として描かれており、ゲームプレイにおいても相応の強敵であるべき「物語的な必然性」がある。実際、オリジナル版では非常に記憶に残る敵だった。

しかし、本作の「からくり兵」はほかの雑魚モンスターと大差ないほどに弱く、強敵としての印象がほとんど残らない。こうした事例は、物語をスムーズに体験させるためにテンポを重視した結果、皮肉にも物語そのものの質的な体験価値を損なってしまっているように思えてならない。

再解釈された「救済」と、原作ファンゆえの「贅沢な不満」

これは原作を遊び尽くした筆者特有の「贅沢な不満」かもしれないが、世界の変化に対する反応が少しあっさりと感じられる場面もあった。

オリジナル版「VII」の凄味は、本筋の膨大なシナリオに加え、寄り道的なテキストが狂気的な密度で用意されており、そうした些細なテキストを発見すること自体が大きな喜びだった。「自らの足で情報を稼ぐ」という、ドラクエ特有の泥臭い冒険の価値が最大化されてるがゆえに、筆者が「VII」を愛する理由でもあった。そういう意味では、「Reimagined」においてはマリベルなどの仲間たちはもちろん、「キーファの妹」など、必然的なイベントではなく、隠しイベントとしてドラマチックな演出や追加シナリオが見てみたかったように思える。

冒頭に記したように、オリジナル版「VII」は、主人公がどれだけ奔走しても、覆せない悲劇がある「冷徹なリアリズム」が支配していた。一方でトゥーラ弾きジャン、ダイアラックの老人クレマン、レブレサックの神父など、こうしたキャラクターの活躍が時間を超えて横軸として挿入される瞬間があり、運命に抗うドラマとして際立っていた。しかし本作ではドラマの再配置に伴って、そういった時間を超えるキャラクターたちの活躍はやや後景に退いてしまった印象を受ける。

体験版の範囲でも示唆されていたように、プレイヤーの選択次第で悲劇的な運命を回避できる「代替エンド」の存在は、主人公を単なる傍観者ではなく、「運命を変えられる英雄」として再定義しようとする試みだ。この変更により、物語のカタルシスは万人に分かりやすく、親しみやすいものになった。少しでも救いのあるグッドエンドへの道筋は、確かに心地よい。

一方で、その代償としてオリジナル版が持っていた特異な「尖り」や、鬱屈としたダークさは緩和されている。救われないからこそ輝いていた人間賛歌や、胸に刺さるような文学的な尖りは、「ドールルック」の愛らしいビジュアルと相まって、マイルドな英雄譚へと角が取れた印象を受ける。この変化を「進化」と捉えるか、それとも「個性の変化」と捉えるかは、オリジナル版への愛着によって評価が分かれるポイントだろう。

本作のシナリオは、「重厚で泥臭い人間賛歌」から「万人に洗練された英雄譚」への転換を果たしている。これを「理想のリメイク」と見るか、「個性の減退」と見るかは、原典のあの「割り切れなさ」をどれほど愛していたかに左右されるだろう。そして筆者は後者の立場なのは言うまでもない。

かつて多くのプレイヤーが挫折した「完走の難しさ」を、約40時間強という適切なボリュームと快適なテンポで解消し、エピソードの整理や救済要素の追加によって、物語はより英雄譚としてのカタルシスを得やすくなり、万人に勧められる遊びやすい「VII」へと生まれ変わっているのは間違いない。

しかし、筆者が強調したいのは、その代償として失われたものも小さくはないということだ。オリジナル版の魅力であった、救いようのない悲劇がもたらす「文学的な尖り」や、狂気的なテキスト量に裏打ちされた「世界の奥行き」は、全体的に影を潜めている。また、第二幕の構造的な単調さが解消されないまま、第三幕だけが駆け足になってしまった歪な構成バランスも、現代の基準で見たとしても課題が残っている。

『ドラゴンクエストVII Reimagined』は、オリジナル版の膨大な物語を、現代的な「ドールルック」と快適なテンポで再構築した作品だ。そのアプローチは、長大な原作を現代のプレイヤーに完走させるための最適解かもしれないが、同時にRPGとしての戦略性や、原作が持っていた「救済の限界」という文学的な深みを犠牲にしている。愛らしく、遊びやすいが、どこか心に残る「尖り」が抜けてしまった、優等生的なリメイクである。

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