宮國椋丞, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2227063 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#沖縄県立糸満高等学校出身の人物
#読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
#横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手
#アジアシリーズ選手
#沖縄県出身の人物
#1992年生
#存命人物
宮國 椋丞(みやぐに りょうすけ、1992年4月17日 – )は、沖縄県糸満市出身(出生地は石川県金沢市)のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
「國」の字は旧字体であるが、メディアによって宮国椋丞の表記も見られる。
石川県金沢市生まれ。
兄の影響で小学一年生で野球を始める。
高嶺中学校時代は軟式野球部に所属。
糸満高校では沖縄県1年生大会決勝で興南高校に投げ勝ち、7年ぶりの優勝に貢献。
2年春からエースとして活躍し、3年夏には県大会決勝に進むも島袋洋奨を擁する興南高校に敗れた。
2010年10月28日のプロ野球ドラフト会議にて読売ジャイアンツから2位指名を受け入団した。
背番号はかつて江川卓が使用していた「30」となった。
2011年はイースタン・リーグで4試合に登板し、19イニングを投げて自責点0だった。
シーズン後は宮崎秋季キャンプに参加し、川口和久投手総合コーチから高評価を得た。
サインに応じる宮國(2012年) 2012年は春季キャンプから一軍に帯同。
3月25日に行われたオークランド・アスレチックスとの親善試合では先発して5回9奪三振1失点で、開幕ローテーション入り。
4月8日の阪神タイガース戦で一軍公式戦初登板。
先発して7回を1失点に抑え、巨人では槙原寛己以来29年ぶりとなる10代での初登板初勝利を挙げた。
5月1日の広島東洋カープ戦ではプロ初完投・初完封勝利を記録。
高卒2年目での完封は巨人では桑田真澄以来となった。
しかし、5月16日のオリックス・バファローズ戦で右肩に違和感を覚え、翌日に登録抹消。
二軍での調整を経て7月15日に一軍復帰。
8月5日の横浜DeNAベイスターズ戦で3ヶ月ぶりの勝利を挙げると、レギュラーシーズン終了まで先発ローテーションの一角を担った。
ポストシーズンは2試合に登板し、中日ドラゴンズとのCSファイナルステージ第3戦に先発して5回3失点。
北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦に先発し7回3安打無失点。
いずれも勝敗はつかなかった。
アジアシリーズでは決勝のラミゴ戦に先発。
6回1失点で勝利投手となった。
2013年はWBCに出場したエース内海哲也の代役として開幕投手を務めた。
20歳での開幕投手は1988年の桑田真澄以来だったが、7回途中3失点で勝ち星はつかず。
7月25日の広島戦で2回途中8失点でノックアウトされるなど、シーズンを通じてスランプに陥り、このシーズンは三度の二軍降格を命じられた。
10月3日に右下腿内側痛が判明し、ポストシーズンの出場が絶望的となった。
CSには出場せず、日本シリーズの40人枠からも外れた。
2014年は、オープン戦から不調が続き、開幕一軍から外れる。
4月と8月に1度ずついずれも横浜DeNAベイスターズ戦に先発するも2試合とも4回持たずKOされ、二軍に降格した。
10月6日、広島戦で先発し7回1失点と好投、前田健太に投げ勝ちチームの最終戦でようやく初白星を挙げた。
2015年は、先発から中継ぎに転向し、新人の戸根千明と共に、主に点差の付いた試合やスコット・マシソン、山口鉄也に繋げる役割を果たし中継ぎの一角として活躍。
39試合に登板した。
2016年も中継ぎとして34試合に登板し、4勝1敗6ホールドを挙げた。
2017年は開幕を二軍で迎え、4月11日に一軍に昇格。
3年ぶりに先発に復帰したものの6月までに0勝7敗(1敗はリリーフでの敗北)、チームでは2005年の桑田真澄以来となる7連敗を喫した。
2018年は中継ぎとして29試合に登板し、4ホールドだった。
2019年も全て中継ぎで28試合に登板、オフに背番号を58に変更した。
2020年は21試合登板(うち1試合先発)、0勝0敗、防御率5.33だった。
10月5日の阪神戦に登板するも、右肩痛を訴え、右肩のコンディション不良で翌6日に登録抹消された。
その後、リハビリを重ねキャッチボールを再開していたが、11月11日に球団から、来季の構想外であることを告げられ。
12月2日に自由契約公示。
12月7日に12球団合同トライアウトに参加。
シート打撃で小山翔平を二飛に抑え、吉川大幾からこの日最速の140km/hの直球で三振を奪うも、堀内汰門には安打を許した。
トライアウトの結果をもってのNPB球…

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