内海哲也, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=182974 / CC BY SA 3.0

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#敦賀気比高等学校出身の野球選手
#東京ガス硬式野球部の選手
#読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
#埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手
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#ゴールデンスピリット賞受賞者
#NPBオールスターゲーム選出選手
#野球日本代表選手
内海 哲也(うつみ てつや、1982年4月29日 – )は、京都府城陽市出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
埼玉西武ライオンズ所属。
敦賀気比高等学校で左腕エースとして活躍し注目された。
高校時代は田中良平・森大輔とともに「北陸三羽ガラス」と呼ばれた。
仲澤忠厚や李景一らとともに1999年の秋季福井大会・北信越大会では他校を寄せ付けない圧倒的な強さで優勝し、翌年の選抜高等学校野球大会への出場を確実とした。
第30回明治神宮野球大会では内海自身は本調子では無かったが、強力打線の援護により準優勝。
第72回選抜高等学校野球大会に出場することが決まり、優勝候補に挙げられていたが、他の部員の不祥事により、敦賀気比高校は甲子園出場を辞退した。
高3夏の予選では福井大会決勝で山岸穣・天谷宗一郎を擁する福井県立福井商業高等学校に延長10回の末に2-3で敗れ、あと一歩で甲子園出場は果たせなかった。
阪神のスカウトに「高校生では打てない」と評された落差の大きなカーブと恵まれた体格から投じる角度のついた最速144km/hの速球の緩急自在な投げ分けで三振の山を築いた。
1試合平均14個を超える奪三振率を誇り、「北陸のドクターK」の異名を取った。
2000年のドラフト会議では複数球団による1位指名での争奪戦が確実視されていたが、祖父の内海五十雄が巨人の野手だったこともあり、ドラフト直前に巨人以外からの指名は拒否することを表明した。
そのため、ドラフト会議では巨人が単独で3位以降で指名することが想定されたが、オリックス・ブルーウェーブが1位指名した。
指名直後に監督の仰木彬から電話を受けるなどしたため、一時はオリックス入団に傾いたが、高校時代にバッテリーを組んでいた李景一が巨人から8位で指名されたことで逆に巨人への気持ちを強くし、最終的には東京ガスへ進んだ。
社会人時代は香月良太・森大輔とともに「三羽ガラス」と呼ばれていた。
2003年の第74回都市対抗野球大会にシダックスの補強選手として出場し準優勝。
同年のドラフト会議で巨人が自由獲得枠で交渉権を獲得し入団。
背番号は祖父と同じ26に決まった(言われるまで知らなかったらしい)。
投球する内海(2006年日米野球) 2004年は二軍で9勝を挙げイースタン・リーグ最優秀防御率を獲得。
勝ち星こそつかなかったが、一軍初先発も経験した。
2005年は監督の堀内恒夫に才能を認められ、林昌範らと競って開幕ローテーションを勝ち取り、4月だけでプロ初勝利を含む3勝を挙げるが、その後は打ち込まれ、6月以降は1勝もできず4勝9敗、防御率5点台に終わった。
2006年は開幕は中継ぎでスタートするが、4月8日の中日戦で離脱した高橋尚成の代役として先発し、6回を無失点で初勝利。
そのまま先発に定着。
スライダーを習得して飛躍の年となり、初完投勝利・初完封勝利を記録するなど、チームトップの12勝を記録。
オールスターゲームや日米野球にも出場した。
リーグ4位の防御率(2.78)やリーグ3位の奪三振(179)を記録した一方で打線の援護にも恵まれず、リーグ最多の13敗を記録。
投球面では9暴投(リーグ最多)を記録した上、左打者に対する被打率が高いという課題を残した。
2007年3月30日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で初の開幕投手を務め、7回2失点の内容で勝利投手となり大役を果たす。
その後も安定した活躍を続け、9月19日の阪神タイガース戦では自己最多の13勝目を上げる。
最終的に高橋尚成と並ぶチームトップタイの14勝(リーグ2位)を挙げ、防御率3.02(リーグ3位)、自身初タイトルとなる最多奪三振(180)を獲得。
優勝を争った中日ドラゴンズ相手には4勝1敗の好成績でホームゲームでは無敗だった。
中日と対戦したクライマックスシリーズでは初戦に先発。
内海は前述のように中日を得意としていたがタイロン・ウッズに2点本塁打を打たれるなど4回4失点(自責点2)でKOされ敗戦投手となった。
その後チームはストレートの3連敗で日本シリーズ進出を逃した。
シーズン終了後、チームがセス・グライシンガーを獲得したことについて、あるイベントで内海は「(補強する)お金があるなら投手陣に回…

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