ジーン・コンリー, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2897483 / CC BY SA 3.0

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ドナルド・ユージーン・コンリー(Donald Eugene “Gene” Conley, 1930年11月10日 – 2017年7月4日)は、アメリカ合衆国オクラホマ州マスコギー出身の元プロ野球選手(投手)・元プロバスケットボール選手。
右投右打。
MLB選手とNBA選手を長期間兼業したマルチアスリートであった。
また、ミルウォーキー・ブレーブスでワールドシリーズの制覇(1957年)を経験し、その後にボストン・セルティックスでNBAファイナルの制覇(1959年・1960年・1961年)も経験しており、「現存の北米4大プロスポーツリーグのうち2つでチャンピオンリングを獲得した初めての選手」でもある(但し、オットー・グレアムが、当時NBAとライバルにあったNBLとNFLで優勝しており、北米4大プロスポーツとしてはグレアムが初)。
ワシントン州立大学時代は野球とバスケットボールの両方で活躍し、両方のスカウトからプロの誘いを受けていた。
当初は大学を卒業するまでは家族がいかなるプロフェッショナル契約を望んでいないとしてオファーを拒否していた。
しかし、熱烈なラブコールについに折れて1950年8月11日にMLBのボストン・ブレーブスと3000ドルの契約金のプロ契約に署名した。
コンリーがバスケットボールのプロ契約も検討していることを知り、ブレーブスのジョン・クインゼネラルマネージャーから「決して再びバスケットボールをプレーしないように」という約束と交換条件に1000ドルの小切手を与えられた。
コンリーはこれを光栄に思い、1951年シーズンオフは鉄工として働いた。
チームメイトで新人のエディ・マシューズらとともに1952年のスプリングトレーニングに招待された。
この頃、数多くのメジャーリーガーやマイナーリーガーが朝鮮戦争に従軍していたが、コンリーは背が高過ぎるとして徴兵を延期された。
ところが、4試合12.1回を投げて16失点と結果を残せず、5月初めには再びマイナーリーグに降格した。
同年4月26日にコンリーはNBAドラフトでNBAのボストン・セルティックスから全体90位の指名を受けた。
妻と話し合い、経済上の理由から11月から3月にかけての野球シーズンのオフの時期はセルティックスでプレーすることを決め、クインも彼のNBAでのプレーを許可した。
1953年はマイナーでは1951年に続き、史上初のスポーティング・ニュース・マイナーリーグ年間最優秀選手賞を複数回受賞する快挙を成し遂げるほどの活躍ぶりだったが、背中を痛めてシーズン後半に離脱した。
病院に1週間の滞在後、6週間は着用するように言われたバック・ブレース(背中を固定する器具)を取り付け、治療プランを開始した。
セルティックスで2シーズン目のプレーを行うために直ぐにブレースを外したが、クインが今度はNBAでプレーしないように要請したためにプレーを断念した。
1954年も当初はブレーブスの4人の先発ローテーションの枠には含まれていなかったが、途中からコンリーも含まれる5人のローテーションに変更された。
コンリーも期待に応え、夏にはオールスターゲームに選出され、8月終わりまで14勝を挙げた。
その後に再び背中を痛めて離脱したが、同年の新人王の投票ではウォーリー・ムーンとアーニー・バンクスに次ぐ3位の得票率を獲得した(4位はハンク・アーロン)。
背中の治療を終えて再びセルティックスでのプレーを試みるが、開幕戦前夜に「今後も2つのスポーツ選手として継続出来るか確信が持てないし、家族と過ごす時間をもっと増やしたい」という理由でチームを辞め、セルティックスに衝撃を与えた。
1955年もオールスターゲームに選ばれたが、6月中盤から肩の痛みを抱えていた。
ゲームでは延長12回表に登板してアル・ケーライン、ミッキー・バーノン、アル・ローゼンを三者連続奪三振に切って取り、その裏に先頭打者のスタン・ミュージアルがサヨナラ本塁打を放ったために勝利投手になっている。
シーズン終盤は故障者リスト入りで過ごした。
1956年5月28日にリリーフ登板でチームに復帰した。
ブレーブスのフレッド・ヘイニー新監…

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