高津臣吾, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=205237 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#MLBの日本人選手
#広島県立広島工業高等学校出身の人物
#亜細亜大学硬式野球部の選手
#東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手
#シカゴ・ホワイトソックスの選手
#ニューヨーク・メッツの選手
#ネクセン・ヒーローズ及びその前身球団の選手
#義大ライノズ及びその前身球団の選手
#新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの選手
高津臣吾

高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 – )は、元プロ野球選手(投手)・監督・野球解説者・評論家。広島県広島市南区段原中町出身。現在は東京ヤクルトスワローズ二軍監督を務め、2020年度シーズンからは一軍監督を務める。

主に抑え投手としてメジャーリーグベースボール(以下:MLB)・日本プロ野球(以下:NPB)・韓国プロ野球(以下:KBO)・台湾プロ野球(以下:CPBL)を経験した初の日本人選手。NPB歴代2位の通算286セーブ、史上2人目となるNPB/MLB通算300セーブを記録している。2005年のシカゴ・ホワイトソックス時代にはMLBチャンピオンリング獲得している。

広島市立段原小学校に上がる前に比治山町にできたマンションに引っ越す。当時はまだ高い建物が少なく、部屋の窓から広島市民球場がよく見えた。幼少の頃から市民球場に何度も通い、白地に赤いユニフォームでグラウンドで躍動する広島東洋カープ選手に憧れた。特にミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。また、叔母が広島市内の歓楽街でフグ料理店を経営していて、叔母に頼み江夏豊にも対面する機会があった。小学校3年のとき、地元の軟式野球チーム「段原レッドイーグルス」で野球を始めた。張本勲らを輩出した広島市立段原中学校に進むが、当時の野球部は活動が盛んでなかった。自宅に近い広島工業高等学校に進学。

広島工業では県内では図抜けた存在だった上田俊治を見て、何か特徴が欲しいとスリークォーターからアンダースローにフォームを変える。に控え投手兼一塁手として春夏連続で甲子園に出場。第58回選抜は準々決勝に進むが宇都宮南高のエース高村祐に抑えられ敗退。第68回全国選手権は3回戦で鈴木健のいた浦和学院に敗れた。本大会での登板はなく代打での出場にとどまるが、広島大会では4試合に登板して2完封、準決勝でも尾道東高に完投勝利し、甲子園出場に貢献している。 

高校卒業後は小川成海監督に勧められ亜細亜大学に進学。同期に小池秀郎がおり、投の二本柱として活躍。東都大学リーグではに春秋季連続優勝を飾る。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で東北福祉大を降し優勝。リーグ通算40試合に登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。大学2年のとき、スピードをつけるため、アンダースローからサイドスローにフォームを修正する。このときシンカーを投げるようになった。他の大学同期に川尻哲郎がいる。

大学卒業後はカープを希望したが、カープは横手投げは獲らないといわれた。社会人野球の三菱重工広島の内定を得ていたが、小池秀郎の視察に来ていたヤクルトスカウト陣が下手投げの面白い投手である高津に着目し、1990年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから3位指名で交渉権を獲得し契約金5500万円、年俸700万円(金額は推定)で入団。

入団当時は先発投手として期待されていた。特に目立った特徴のない投手だったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。既に速いシンカーは投げていたが、野村克也監督から遅いシンカーの習得を命じられた。5月2日の対読売ジャイアンツ戦では松井秀喜にプロ初ホームランを献上するも、チームのリードを守り切りプロ初セーブを記録。この年抑え投手に転向し、当時の球団記録を塗り替える20セーブを挙げてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。この年の日本シリーズでは3セーブを上げる活躍を見せ胴上げ投手になった。

、熾烈なセーブ王争いに競り勝ちプロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得。

、不動の抑えとして自身のセーブ記録を更新する28セーブを挙げリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは二度目の胴上げ投手になった。

、21セーブは挙げたものの年間通して今一つの調子でチームの不振に釣られる形になった。7月21日に行われたオールスターゲーム第二戦では松井の代打として登場、相手投手のイチローと対戦しショートゴロに討ち取られた。

、シーズン序盤抑えとして結果を残せず、先発要員としても起用されるも先発でも3連敗と結果が出なかった。7月以降は中継ぎで徐々に安定感を取り戻し、抑えと…

WACOCA: People, Life, Style.