髙濱卓也, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1207082 / CC BY SA 3.0
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#阪神タイガース及びその前身球団の選手
#千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手
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#1989年生
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髙濱 卓也(たかはま たくや、1989年7月6日 – )は、千葉ロッテマリーンズに所属する佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手(内野手)。
右投左打。
実弟は北海道日本ハムファイターズ内野手の髙濱祐仁。
苗字については、報道やスコアボードなどで「高浜」と記されることもある。
福岡県で出生後に佐賀県佐賀市へ転居。
佐賀市の北小ジュニアソフトボールクラブでソフトボール、小学校4年時に北川副少年野球団で軟式野球を始める。
佐賀市立城南中学校では軟式野球部で主に投手を務め、打撃でも硬式球より飛びにくいとされる軟式球で推定飛距離130 mの本塁打を打つなど活躍した。
小学校・中学時代のチームメイトには、のちに2007年夏の甲子園大会決勝で野村祐輔から逆転満塁本塁打を打つ副島浩史(2018年11月から唐津工高野球部監督)らがいた。
当初は佐賀県内の高校への進学を希望していたが、高濱の出場した試合を横浜高校硬式野球部監督(当時)の渡辺元智が観戦していたことをきっかけに横浜高校へ進学。
入学後に内野手へ転向すると、1年時から1番打者としてレギュラーの座を確保した。
2年春には、第78回選抜高等学校野球大会に「3番・遊撃手」として出場。
1学年先輩の福田永将・佐藤賢治とのクリーンナップで、土井健大を擁する履正社高、大嶺祐太を擁する八重山商工高、斎藤佑樹を擁する早稲田実業高、尾藤竜一を擁する岐阜城北高などを破った末に優勝した。
2年夏の第88回全国高等学校野球選手権大会に3番サードとして出場したが、中田翔を擁する大阪桐蔭高校の前に初戦で敗退。
3年時の夏には選手権神奈川大会準決勝で菅野智之擁する東海大相模高校に敗れた。
7歳下の実弟の祐仁も、自身の卒業後に横浜高校へ進学。
渡辺の指導を、孫で同級生の渡邊佳明などと共に受けている。
打球を広角へ打ち分けられる打力、下級生時から中心選手として活躍した実績、俊足、強肩、高い野球センスを持ち合わせることから、『速報!甲子園への道』(ABCテレビ制作の選手権地方大会ダイジェスト番組)では、当時「高校ビッグ3」と呼ばれた中田・佐藤由規・唐川侑己に並ぶ格好で「高校四天王」の1人に数えられていた。
実際には、対外試合で通算18本塁打を打った一方で、両膝を痛めることが相次いでいた。
2007年のNPB高校生ドラフト会議では、1巡目で阪神タイガースと横浜ベイスターズから指名された。
阪神は中田、横浜は佐藤への独占交渉権を指名重複による抽選で逃していたが、高濱への再指名でも重複。
抽選の結果、阪神が交渉権を獲得したため、後に契約金8,000万円、年俸360万円(金額は推定)という条件で入団した。
入団当初の背番号は36。
高濱の抽選を外した横浜は常葉菊川高の投手・田中健二朗を指名し、獲得した。
阪神時代(2009年7月15日) 2008年には、高校時代から繰り返している膝の故障によって、春季キャンプから別メニューでの調整が続いた。
シーズンに入ってからも公式戦での出場機会はなく、首脳陣からは、外野手としての起用で膝への負担の軽減と出場機会の増加を図ることも検討された。
2009年には、ウエスタン・リーグ公式戦28試合に出場。
通算の打率は.198で、三振数(17)が打席数(31)の半分近くに達していたものの、出塁率.306を記録した。
守備面では、本来のポジションである遊撃手としての出場が2試合にとどまる一方で、10試合で外野を守った。
2010年には、ウエスタン・リーグ公式戦39試合に出場すると、打率.195, 出塁率.241を記録。
守備では主に遊撃手として起用されたが、32試合で8失策を記録した。
シーズン終了後に背番号を66へ変更したが、後述する事情から、実際に着用したのは1か月ほどだった。
2011年には、春季キャンプのスタートを二軍で迎えながら、キャンプ中に開かれた一・二軍合同の紅白戦3戦で9打数6安打と活躍。
この試合を境に一軍へ帯同すると、キャンプ後に出場したオープン戦を含めて、実戦6試合で14打数8安打を記録した。
高知でのオープン戦で結果を出したことで一軍メンバーとして帰阪。
甲子園球場の一軍ロッカーに初めて自分の名前が貼られた初日にロッテへの移籍を通達された。
2011年オープン戦期間中の3月1日に、千葉ロッテマリーンズへの移籍が発表された。
前年に…
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