田中健二朗, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1219714 / CC BY SA 3.0
#日本の野球選手
#常葉大学附属菊川高等学校出身の人物
#横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手
#NPBオールスターゲーム選出選手
#愛知県出身の人物
#1989年生
#存命人物
田中 健二朗(たなか けんじろう、1989年9月18日 – )は、愛知県新城市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。
左投左打。
小学校2年生の時から投手として山吉田少年野球クラブで野球をスタート。
中学校3年生の春には、ボーイズリーグの新城ベアーズで全国大会に出場した。 常葉菊川高校への進学後は、投球フォームの乱れから腰椎分離症に悩まされた。
しかし、中日ドラゴンズでのプレー経験がある佐野心部長から『ど真ん中投法』を直々に教わると制球が安定していった。
2年生の秋からエースとしてチームを牽引すると、3年生春の第79回選抜高等学校野球大会でチームを優勝に導いた。
3年生夏の第89回全国高等学校野球選手権大会でも準決勝まで進出し、野村祐輔、小林誠司、土生翔平、上本崇司らを擁する広陵高等学校に敗れはしたものの、平成に入ってからは静岡県勢初めてのベスト4入りを果たした。
春夏通じて甲子園球場の全国大会で通算6勝(春4勝夏2勝)を挙げたことが評価されて、2007年のNPB高校生ドラフト会議では、横浜ベイスターズから1巡目で指名された。
佐藤由規・高濱卓也の指名重複による抽選で交渉権獲得を逃した末の指名だったが、後に契約金7,000万円、年俸720万円(金額は推定)という条件で入団した。
入団当初の背番号は46。
常葉菊川高から直接NPBの球団に入った選手は田中が初めてで、大学経由を含めても門奈哲寛以来2人目であった。
2008年、左肩を痛めたため、一・二軍を通じて公式戦への登板機会がなく、実戦登板はシーズン終了後のフェニックスリーグにまで持ち越された。
2009年、イースタン・リーグ公式戦で、主に先発投手として3勝をマーク。
フレッシュオールスターゲームにも、同リーグの監督推薦選手として出場した。
2010年、9月11日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、6番手投手として一軍公式戦にデビュー。
9月15日の対阪神タイガース戦(横浜スタジアム)で一軍公式戦初先発を果たすと、6回0/3を5安打3失点という内容で初勝利を挙げた。
横浜の投手による一軍公式戦初先発初勝利は、2008年の小林太志以来であった。
2011年、一軍公式戦では、先発として1試合に登板しただけでシーズンを終えた。
2012年、一軍公式戦のロングリリーフで投球内容が安定していたことから、4試合で先発に起用。
シーズン通算では15試合に登板したが、0勝2敗、防御率4.67という成績で終わった。
2013年、一軍公式戦には、オール救援で9試合に登板。
勝敗は付かず、防御率は4.85であった。
2014年、プロ入り後初めて公式戦の開幕を一軍で迎えたが、インフルエンザに感染したため、公式戦への登板機会のないまま登録を抹消された。
以降のシーズンでは一軍と二軍を往復しながら、力のあるボールを投げる手応えをつかんだ。
9月に一軍へ昇格してからは、登板した試合を全て無失点に抑えるほど好調で、9月23日の対阪神戦(横浜)では一軍で4年振りの勝利を記録した。
なお、シーズン終了後に首脳陣から先発での起用を打診されたが田中自身はこれを固辞している。
2015年、2年連続で公式戦の開幕を一軍で迎えると、新人ながらクローザーに抜擢された山崎康晃につなぐセットアッパーとして活躍する。
首脳陣の判断で山崎が休養した5月15日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では山崎に代わってクローザーを務めると、一軍での自身初セーブを達成した。
前半戦にチームが好調だったことを背景に、マツダオールスターゲームのファン投票ではセントラル・リーグ中継ぎ投手部門で2位にランクインした。
結局、同リーグの監督推薦選手として初出場を果たした。
最も前半戦の終盤から徐々に調子を落としていたため、実際にはオールスターゲーム第1戦の前日(7月16日)に出場選手登録を抹消される。
同ゲームでは7月18日の第2戦(マツダスタジアム)に3番手で登板したが、公式戦では一軍復帰を果たせずにシーズンを終えた。
一軍公式戦全体では35試合に登板し、2勝2敗ながら前半戦だけの登板で防御率2.20、16ホールドという好成績を残した。
シーズン終了後の11月に開催された第1回WBSCプレミア12では、日本代表の第1次候補選手に選ばれたものの、最…
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