ダスティン・アクリー, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2029547 / CC BY SA 3.0

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ダスティン・マイケル・アクリー(Dustin Michael Ackley, 1988年2月26日 – )は、アメリカ合衆国・ノースカロライナ州ウィンストン・セーラム出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。
現在はフリーエージェント。
メディアによっては、アックリーと表記される場合もある。
父親のジョン・アクリーは、かつてボストン・レッドソックス傘下のAAA級ポータケットなどに所属していたプロ野球選手だったが、結局メジャーには昇格できずに選手生活を終えている。
ノースカロライナ大学時代は3年連続で打率4割を記録し、通算打率は.412と卓越したバットコントロールを誇った。
大学入学時は遊撃手で、その後は中堅手へ転向したが、2008年のトミー・ジョン手術後、一塁手へコンバートされた。
2009年にはゴールデンスパイク賞の最終選考まで残ったものの、スティーブン・ストラスバーグが受賞した。
2009年のMLBドラフトでシアトル・マリナーズから1巡目(全体2位)指名を受け、5年750万ドルの契約を結ぶ。
2011年6月17日、フィラデルフィア・フィリーズ戦にて、7番二塁手でメジャーデビューを果たす。
観客から大歓声を送られて立った第1打席では、2ストライク後にピッチャー返しとなる中堅前安打を放ち、メジャー初安打を記録。
翌6月18日には、同フィリーズ戦で右翼へメジャー初本塁打を記録した。
その後も安定して打ち続け、6月24日以降は5番打者を務め、7月8日以降には3番打者に定着。
不安視されていた二塁の守備も無難にこなした。
途中までは打率3割前後を残していたが、徹底的なマークに遭ったことやハムストリングを痛めた影響などからシーズン終盤に失速し、打率.273・出塁率.348でシーズンを終えた。
90試合の出場ながら三塁打を7本記録し、イチローの持つ新人最多三塁打8本の球団記録にあと1本まで迫った。
シーズン終了後、マリナーズのチームMVPに選出された。
2012年は、東京ドームで行なわれたオークランド・アスレチックスとの開幕戦で同年のメジャーリーグ第1号と決勝打を放った。
シーズンでは前年を大きく上回る153試合に出場したものの、打率.226、出塁率.294と極度の不振に陥った。
2013年、出場試合数が減少して規定打席到達こそならなかったが、打率は.253まで上昇した。
守備面では、セカンドとセンターでそれぞれ50試合以上の守備に就き、他に左翼手や一塁手に就く機会もあり、ユーティリティ選手として起用された。
2014年、左翼手に固定されて起用され、2年ぶりに規定打席に到達した。
しかし打率.250・出塁率.300のラインを下回り、低調だった。
2015年7月30日、ホセ・ラミレス、ラモン・フローレスとのトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍した。
マリナーズでは不振だったが、ヤンキース加入後は調子を上げ、23試合で打率.288・4本塁打・11打点という内容だった。
両チームでの合算成績は、108試合で打率.231であり、2年連続2ケタ本塁打を放った。
ヤンキースでは、固定ポジションを与えられたわけではなく、内外野の複数ポジションを守った。
2016年は一塁も守っている。
2016年は、アーロン・ヒックスやロブ・レフスナイダーら若手のユーティリティ格が台頭した事もあって出番を大幅に減らし、5月30日以降は右肩の脱臼で故障者リストに入ったため、メジャーデビュー以来ワーストの28試合の出場に終わった。
打率は.148で長打はなく、挙げた打点も4だった。
守備成績は、一塁手の13試合で無失策、右翼手の9試合で無失策だった。
11月18日に自由契約となった。
2017年2月4日、ロサンゼルス・エンゼルスとマイナー契約を結び、同年のスプリングトレーニングに招待選手として参加することになった。
4月5日にエンゼルス傘下AAAチームのソルトレイク・ビーズに送られ、そのままメジャーに昇格することなく1年間プレーし、シーズン終了後の11月6日に自由契約となった。
翌2018年もエンゼルスとマイナー契約を結び、ソルトレイク・ビーズでプレーした。
2019年1月に古巣のシアトル・マリナーズと契約合意し、1月24日にマイナー契約を結んだ。
しかしシーズン開幕前の3月12日に解雇され…

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