増井浩俊, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1940834 / CC BY SA 3.0

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増井 浩俊(ますい ひろとし、1984年6月26日 – )は、静岡県焼津市出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
オリックス・バファローズ所属。
「まっすー」とも言われる。
小学校4年時から地元・焼津市の野球少年団で野球を始めると、焼津市立和田中学校野球部時代にノーヒットノーランを記録。
この経験をきっかけに、プロ野球選手を志した。
増井と同じく焼津市出身の牧田和久と川端崇義とは同学年で、小学校時代から対戦の経験がある。
静岡県立静岡高等学校へ進学した後は、硬式野球部に所属したが、春夏共に阪神甲子園球場での全国大会への出場はできなかった。
高校卒業後に駒澤大学へ進学すると、東都大学野球のリーグ戦で、通算34試合に登板。
8勝12敗という成績を残した。
大学卒業後に入社した東芝では、当時エースの座にあった磯村秀人の陰に隠れていたが、入社3年目の2009年に実力が開花。
第38回IBAFワールドカップ日本代表にも選出された。
同年のNPBドラフト会議にて北海道日本ハムファイターズから5巡目指名を受け、契約金5,000万円、年俸900万円(金額は推定)という条件で入団。
入団当初の背番号は43。
日本ハム時代 2010年4月9日の福岡ソフトバンクホークス戦でプロ初登板を果たしたが、3失点で敗戦投手となった。
それ以後も先発ローテーションの一員として起用され、4月27日のオリックス・バファローズ戦で7回1安打無失点と好投し、プロ初勝利を挙げた。
また、5月13日の阪神タイガース戦ではプロ初安打と初打点を記録した。
その後、右肩肩甲上神経炎により6月16日に出場選手登録を抹消され、8月後半に再登録されるも不振が続き9月前半に再度抹消された。
11月8日には一般人女性と結婚。
2011年は開幕からセットアッパーとして起用され、前半戦は防御率一点台前半の好成績を記録。
けがのため欠場した馬原孝浩(ソフトバンク)の補充選手としてオールスターゲーム初出場を果たし、第2戦で4番手として登板した。
その後もセットアッパーとしてシーズンを乗り切り、リーグ3位の34HP、防御率も1点台と飛躍の年となった。
また、背番号も「43」から同年限りで退団した林昌範が着用していた「19」に変更された。
2012年もセットアッパーとして起用されたが、5月2日に抑えの武田久が右膝の故障により戦線を離脱したため、その間は抑えを担うこととなり、抑えとして初登板した5月6日に初セーブをあげた。
武田の復帰後は再びセットアッパーに戻り、6月・9月に疲労の蓄積で不調に陥りながらも、最終盤には持ち直し、共にパ・リーグ新記録となる45ホールド・50ホールドポイントを挙げ最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。
2013年は武田久の離脱により抑えを任されたが、4月後半からセットアッパーに復帰した。
しかし6月5日の読売ジャイアンツ戦で小笠原道大に2年振りの本塁打となるサヨナラ3ランを打たれ、7月には2試合連続で救援失敗するなど不安定な投球が続き、宮西尚生やルーキーの河野秀数にセットアッパーの座を譲ることもあった。
最終的に3年連続の50試合登板、そして史上最速(192試合)での100ホールドを達成したものの、シーズン終盤に持ち直したとはいえ防御率、ホールド数共に前年に比べて数字を大幅に落とした。
2014年も開幕早々に武田久が離脱したことで抑えに回った。
序盤はリードを守りきれない場面が目立ち、6月には4試合連続で失点するなど投球が安定せず、一時は新外国人のマイケル・クロッタが守護神を務めていた。
後半戦は25試合でわずか2失点と精彩を取り戻し、自己最多となる23セーブを記録した。
8月16日の埼玉西武ライオンズ戦では、野手を使い切ったことから延長11回に4年振りに打席に立つ場面も見られた(結果はセカンドゴロ)。
2015年は開幕から抑えとして君臨し自身初となる30セーブを挙げ、福岡ソフトバンクホークスのデニス・サファテとセーブ王争いを演じたが最終的には2セーブ差で競り負け、それでも自己最多の39セーブとなった。
10月9日には第1回WBSCプレミア12の最終ロースター28名に選出…

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