古谷拓哉, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=458269 / CC BY SA 3.0
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#駒澤大学附属岩見沢高等学校出身の人物
#駒澤大学硬式野球部の選手
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古谷拓哉
古谷 拓哉(ふるや たくや、1981年7月14日 – )は、北海道北見市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
駒澤大学附属岩見沢高校時代は、夏の第80回全国高等学校野球選手権大会(当時は南北海道代表)と翌春の第71回選抜高等学校野球大会にエースとして出場。3年時の夏は、南北海道大会決勝で北海高と対戦するも自身の暴投により0-1でサヨナラ負けを喫した。
高校在学中は学業も優秀で、枠が一つしかない指定校推薦で駒澤大学に進学。当時はカウンセラーになることを目指し、心理学を専攻した。入学後、野球部には入部しなかった。上記の暴投のショックで入部しなかったと周囲には言われていたが、高校時代で野球への情熱が燃え尽きてしまったからであった。遊びで軟式野球サークルに所属してはいたが、週に1回の練習にも行くか行かないかの日々を送っていた。学業にも熱が入らず、不摂生な生活を送っていた中、たまたま見たシドニー五輪での松坂大輔の姿に感化され、1年時の秋に一念発起し硬式野球部に途中入部する。野球部からは「左投げじゃなかったら取らなかった」と言われたという。しかし、東都1部リーグでは通算20試合登板し1勝7敗に終わった。
大学卒業後は一般企業に就職することを考えていたが、社会人野球の日本通運との練習試合に登板し好投したことをきっかけにスカウトされ入団。ここでもエースになれなかったが、2年目となるの第76回都市対抗野球大会で同大会の優勝チームである三菱ふそう川崎戦で先発投手降板後に登板し、5回無失点の好投を見せ、この投球が当時千葉ロッテマリーンズで監督を務めていたボビー・バレンタインの目に留まり、同年のプロ野球ドラフトの大学・社会人ドラフト5巡目で千葉ロッテマリーンズから指名を受け入団した。
は、入団当初から即戦力左腕として期待され、8月30日のソフトバンク戦で初先発初登板を果たしたが、2回3失点で結果は敗戦投手。一軍での登板はその1試合のみだった。しかし二軍では防御率2.51、10勝5敗の成績で、ルーキーながらイースタン・リーグ最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠を獲得した。
は二軍で防御率5点台、3勝6敗と不調で、一軍登板なし。
は二軍で26試合に登板し1勝1敗、防御率3.99の成績を残すも、2年連続で一軍登板なしに終わった。
は、3年振りの一軍登板を果たしたが、防御率11.81に終わった。
シーズンは、結果が出なければ打撃投手へ転向するよう球団フロントから通達される。シーズン当初は二軍スタートとなるが、4月後半に一軍に昇格すると、5月3日の北海道日本ハムファイターズ戦に2番手として登板し初勝利を挙げ、同年は58試合に登板し3勝0敗、防御率2.91の好成績でレギュラーシーズンを終える。同年の日本シリーズにも4試合に登板し、1ホールドをマークした。
は、開幕一軍入りするものの、序盤は不調に苦しみ5月に二軍落ち。だが、9月下旬に一軍に復帰すると、一時は10点台にまで低迷していた防御率も5点台にまで持ち直した。
は、前年よりも登板数が減少し、10試合で防御率5.79に終わった。同年オフの秋季キャンプで、新任の斉藤明雄投手コーチから先発の適性を見出され、打診を受け転向する。
シーズンは先発として迎えたが、オープン戦では不安定な投球で開幕一軍はならなかった。しかし、5月30日のイースタン・リーグの対横浜DeNAベイスターズ戦(平塚球場)でノーヒットノーランを達成した。この投球が評価され、一軍に昇格すると6月26日の対オリックス・バファローズ戦であと一人でノーヒットノーランを達成するところまで漕ぎ着けたものの、坂口智隆に3塁打を打たれ達成はならなかった。しかし続く代打の辻俊哉を遊ゴロに打ち取り、7年(2492日)ぶり2度目の先発を初完封先発初勝利で飾った。その後もシーズン終了までローテーションの一角として活躍し、自己最多となる9勝、防御率2.73をマークし、同じくこの年それまで同じ左腕で伸び悩んでいた服部泰卓と共にチーム3位に貢献した。クライマックスシリーズのファーストステージでは西武と対戦。第1戦に先発し、相手の先発は岸孝之だった。打線の大量援護だったが5回途中で降板する。ファイナルステージの楽天戦には第3戦に先発するも敗戦投手となった。
は開幕から先発としてローテ入…
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