長野久義, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=778203 / CC BY SA 3.0
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長野 久義(ちょうの ひさよし、1984年12月6日 – )は、佐賀県三養基郡基山町出身のプロ野球選手(外野手)。
右投右打。
広島東洋カープ所属。
妻はテレビ朝日アナウンサーの下平さやか。
佐賀県基山町立基山小学校1年生の時に地元の少年軟式野球チーム「基山バッファローズ」に入部。
6年生時に主将を務める。
基山中学校時代は九州硬式少年野球協会フレッシュリーグ所属の「筑紫野ドリームズ」に在籍。
筑陽学園高校へ一般入試で入学し、2002年の春季九州地区高校野球大会ベスト4進出。
プロの誘いはあったが、日本大学生産工学部マネジメント工学科へ進学、硬式野球部(東都大学野球連盟加盟)へ所属。
2年次までは三塁手だったが、打撃力を生かすため、3年次となる2005年の東都大学野球春季1部リーグ戦から中堅手に転向。
また、長野は外のスライダーを振ってしまう癖があったため、野球部の後輩にアドバイスを受けて、あえてホームベースから離れることになる。
離れることにより、バットが届く球ならストライク、届かないならボールと見極めることで、弱点を克服した。
4年次となった2006年に急成長し、春季は12試合出場、打率.489(47打数23安打)、主将を務めた秋季は13試合出場、打率.404(52打数21安打)で1995年秋・1996年春の高須洋介(青学大)以来となる2季連続首位打者となり、ベストナインにも満票選出された。
強肩・俊足を兼ね備え、プロの注目を集めた。
同年秋の日米大学野球選手権、IBAFインターコンチネンタルカップ、2006年アジア競技大会に日本代表として出場。
東都大学リーグ通算87試合出場、290打数85安打、打率.293、10本塁打、40打点。
同年秋のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受けたが、読売ジャイアンツへの入団を熱望していたことから入団を拒否。
2007年に本田技研工業へ入社。
同社のノンプロチームHonda硬式野球部へ入部した。
Hondaでは第62回JABA東京スポニチ大会で社会人デビュー。
主に3番・右翼手としてチームのベスト4入りに貢献し、同大会で新人賞。
また4月の第55回JABA静岡大会では準決勝で先制本塁打を打つ活躍が認められ、大会最優秀選手に選出された。
2008年、ドラフト会議で巨人以外に指名された場合はプロ入りせず会社に残留する意志を固めていたが、巨人以外でも入団するとの情報を得ていた千葉ロッテマリーンズが2巡目で“強行”指名。
当日のボビー・バレンタインとの面会を拒否し、11月25日の入団交渉後、12月3日に入団拒否を明らかにした。
翌日にロッテ球団側に直接入団拒否を申し入れ、球団側も了承。
Honda残留が決定し、2009年のドラフトで巨人の指名を待つこととなった。
2009年2月5日、巨人は長野にドラフト1位指名する方針を公表した。
Hondaでは第80回都市対抗野球大会で打率.579(19打数11安打)の活躍で首位打者を獲得。
チームを13年ぶりの優勝に導いた。
10月29日のドラフト会議では巨人から確約通り単独1位で指名を受けた。
ドラフト指名を2回拒否して3回目の指名を受けたのは、巨人の先輩に当たる岡本光(1982年に3回目の指名)以来となった。
直後、原辰徳と対面し二岡智宏の移籍で空き番となっていた背番号「7」のユニフォームを手渡された。
11月23日、契約金1億円、出来高払い5,000万円、年俸1,500万円(金額は推定)で契約合意。
同日、東京ドームで行われた「ジャイアンツファンフェスタ」で入団発表を行った。
巨人時代、2010年4月4日マツダスタジアムにて 2010年、新人合同自主トレで、柔軟性・持久力には課題を残すものの、打撃で鋭い打球、守備練習で快足を披露し信頼を得る。
オープン戦でも結果を残し、同期の土本恭平、市川友也と共に開幕一軍を決めた。
3月26日の東京ヤクルトスワローズとの開幕戦で左翼手として守備から途中出場し、プロ入り初出場を果たす。
3月28日のヤクルト戦で2番・中堅手としてプロ入り初の先発出場を果たした。
その後は6、7番を中心に起用されたが、8月以…
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