歳内宏明, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2460017 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手
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#聖光学院高等学校出身の人物
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#1993年生
歳内 宏明(さいうち ひろあき、1993年7月19日 – )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(投手)。
右投右打。
羽田エキスパートエージェンシーとエージェント契約を結んでいる。
尼崎市立小園小学校3年時から「猪名川エンジェルス」で軟式野球を始めると、中学生時代にはボーイズリーグの宝塚ボーイズに所属した。
オリックス・ブルーウェーブの打撃投手時代にイチローの練習パートナーとして知られた当時の宝塚ボーイズ監督・奥村幸治の勧めで、中学卒業後は福島県の聖光学院高校へ進学。
1年生だった2009年の秋からベンチ登録を果たしたものの、対外試合の登板では、打たれ出すと止まらなくなる傾向が見られた。
2010年には、2年への進級当初まで4番手・5番手の投手として扱われていたが、6月にスプリットの投げ方を身に付けたことから状況が好転。
夏の選手権福島大会直前に先輩投手が故障したこともあって、エースの座を確保すると、チームを選手権全国大会出場に導いた。
全国大会では、春の第82回選抜高等学校野球大会で準決勝まで進んだ広陵高校と初戦(2回戦)で対戦。
有原航平との投げ合いを制して1-0で完封勝利を挙げると、3回戦でも履正社高に勝利した。
準々決勝で島袋洋奨を擁する興南高校に3-10で敗れたものの、後に興南高校がこの大会で沖縄県勢初の春夏連覇を達成したことから、聖光学院も歳内も注目されるようになった。
2011年には、3年へ進級する直前の3月11日に発災した東日本大震災で、伊達市内にある聖光学院高校のグラウンドや寮が被災した。
歳内もいったん実家へ帰省したが、発災のおよそ2週間後に野球部の練習が再開されると、練習と並行しながら他の部員と共にボランティアで支援物資の運搬などに携わった。
夏の選手権全国大会に福島代表で出場すると、日南学園高校との1回戦を、延長10回の末に5-4で勝利した。
金沢高校との2回戦で釜田佳直と投げ合った末に2-4で敗れたため、「『被災地の思いを背負う』と言ってきました。チームのみんなにも、福島の人にも申し訳ないです」と涙ながらに語って甲子園を後にしたが、2試合を通じて奪った三振は30個にまで達した。
ちなみに、野球部の1学年後輩には岡野祐一郎がいて、歳内の同部引退後にエースナンバーを引き継いでいる。
2011年8月28日から開催の第9回AAAアジア野球選手権大会に日本代表の一員として出場すると、この年のNPBドラフト会議で、地元球団の阪神タイガースから2巡目で指名。
契約金6000万円、年俸720万円(金額は推定)という条件で入団した。
入団当初の背番号は26。
夏の選手権全国大会の常連校に数えられている聖光学院高校の出身者では初めてのプロ野球選手でもあった。
阪神時代 (2015年8月29日 阪神鳴尾浜球場にて) 2012年、ウエスタン・リーグの公式戦で、8月末までに4勝2敗、防御率2.32という好成績を記録。
9月2日の対広島東洋カープ戦(甲子園)で、先発投手として一軍デビューを果たした。
9月13日の二軍練習中に腰痛を発症。
当初予定していた9月17日の横浜DeNAベイスターズ戦(甲子園)の先発登板を回避したばかりか、一軍への再昇格を果たせないままシーズンを終えた。
シーズン終了後の11月には、秋季キャンプへの参加を予定していたが、体調不良を理由に参加メンバーから外れている。
2013年、春季キャンプからの二軍調整を経て、4月7日にシーズン初の出場選手登録。
救援要員として5試合に登板したが、被安打4本のうち3本が本塁打で、5失点を喫するなど精彩を欠いた。
4月24日に登録を抹消されると、そのままシーズンを終えた。
なお、6月には、1年先輩の投手・岩本輝と共にミニキャンプでの調整に専念。
ウエスタン・リーグの公式戦では、12試合に登板したが、2勝3敗、防御率4.87という成績にとどまった。
2014年、春季キャンプを一軍選手主体の「沖縄組」で迎えた後に、3月21日のウエスタン・リーグ公式戦でオリックス・バファローズを相手に「開幕投手」を務めると、4月10日の対横浜DeNAベイスターズ戦(甲子園)で一軍公式戦2年ぶりの先発を経験(詳細後述)。
7月30日の対東京ヤクルトスワロー…

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