榎田大樹, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2221793 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#アジア競技大会野球日本代表選手
#日本のアジア競技大会銅メダリスト
#福岡大学野球部の選手
#東京ガス硬式野球部の選手
#阪神タイガース及びその前身球団の選手
#埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手
#NPBオールスターゲーム選出選手
#鹿児島県出身の人物
#1986年生
榎田 大樹(えのきだ だいき、1986年8月7日 – )は、鹿児島県曽於郡大崎町出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
大崎小学校4年時に地元の鹿児島県・大崎ソフトボールスポーツ少年団に所属しソフトボールを始める。
5年生の時には全国大会優勝。
当時、同チームの1学年先輩には松山竜平が在籍して捕手を務めており、榎田ともバッテリーを組んでいた(なお、このチームの監督の新留勝郎は、阪神で榎田とチームメイトとなる福留孝介を指導した人物である)。
大崎中学では野球部に入り投手兼外野手。
小林西高では1年春からベンチ入りし、秋からは本格的に投手として起用されるようになる。
3年の夏は、準決勝で日南学園高に敗れベスト4。
甲子園出場はならなかったが、打者として注目され、投手としても高く評価されるも、体育の教員免許が取れる福岡大学に進学。
2年上には後に東北楽天ゴールデンイーグルスに入団する藤原紘通、1年上には後に阪神でチームメイトとなる白仁田寛和がいた。
4年春には肘を痛めながら2勝を挙げリーグ優勝に貢献し、大学選手権出場を決めた。
リーグ通算12勝で、ドラフト候補にも挙げられたが指名されず、東京ガスに入社した。
東京ガス時代のチームメイトに、後に楽天に入団する美馬学がいる。
東京ガスでは入社1年目から投手の柱として活躍し、2009年の第80回都市対抗野球大会では若獅子賞を受賞し、好左腕として注目される。
翌2010年の第81回都市対抗野球大会でも大いに活躍した。
2010年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから1巡目で指名。
契約金1億円に出来高分5000万円、年俸1500万円(金額は推定)という最高条件で入団した。
背番号は13。
なお、指名後の同年11月には、広州アジア大会に野球日本代表として参加。
銅メダルを獲得した。
2011年には、新人ながら、開幕からセットアッパーとして活躍。
5月24日の対埼玉西武ライオンズ戦(阪神甲子園球場)でプロ初勝利を挙げると、7月7日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)ではプロ初セーブを記録した。
さらに、オールスターゲームにも監督推薦で出場。
阪神でオールスターに出場した新人選手は、当時の一軍投手コーチ・藪恵壹の現役時代(1994年)以来であった。
後半戦の序盤に蓄積疲労の影響で二軍調整を経験したものの、8月15日に一軍へ再び昇格すると、セットアッパーへ復帰。
公式戦全体では、西村一孔(1955年)の60試合を上回る球団新人新記録の62試合に登板した。
この間に稼いだホールド数は33で、セントラル・リーグの新人投手では歴代最多、NPBの新人投手全体でも歴代2位に相当する記録であった。
2012年には、前年に続いて開幕からセットアッパーに起用されると、NPBシーズンタイ記録の8試合連続ホールドを記録。
9試合目での登板でも無失点に抑えたが、チームが8点差を付けていた場面からマウンドに立ったため、ホールドが付かず新記録の達成を逃した。
オールスターゲームでは、選手間投票で選出されていた中日のトニ・ブランコが左手骨折のために出場を辞退したことから、ブランコの代替選手扱いながら2年連続出場が内定していた。
しかし、内定後に左肘の関節を痛めたため、結局は榎田自身も辞退(榎田の代役は中日の新人投手・田島慎二)。
阪神の選手では藪以来になるはずだった入団1年目からの連続出場には至らなかった。
8月21日に一軍へ復帰したが、左肘痛の再発をきっかけに左肘関節炎との診断を受けたため、9月21日に再び出場選手登録を抹消。
同月27日には、シーズン終盤にもかかわらず、翌シーズンの早期復帰に備えるべく左肘遊離軟骨の除去手術を受けた。
2013年には、前年に手術を受けた左肘への負担を軽減すべく、プロ入り後初めて先発に転向。
4月4日の対中日戦(京セラドーム)で公式戦への先発デビューを果たしたが、失策による1失点(8回2安打自責点0)で敗戦投手になった。
しかし、2試合目の登板になった同月11日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(甲子園)では、8回途中まで2安打無失点に抑えて先発初勝利。
一時はセントラル・リーグの防御率ランキングでトップに立つほど好調だったが、4月と7月に2勝…

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