加藤翔平, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2713810 / CC BY SA 3.0
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#上武大学硬式野球部の選手
#千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手
#中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手
#埼玉県出身の人物
#1991年生
#存命人物
加藤 翔平(かとう しょうへい、1991年3月28日 – )は、埼玉県加須市出身のプロ野球選手(外野手)。
右投両打。
中日ドラゴンズ所属。
野球を始めたのは小学校2年から。
加須市立三俣小学校時代は陸上競技やサッカーなども同時にやっていたが、父からの「陸上より野球の方が面白い」という言葉で野球に専念することに。
小学校時代は「三俣タイガース」に、加須市立昭和中学校時代は「加須シニア」に所属。
その後、野球と勉強をしっかりとやって公立高校で私立に勝ちたいという思いから、春日部東高校へ進学。
1年夏の県大会後、当時のコーチからの薦めで左打ちにも挑戦。
コーチからの指導と人一倍の練習量と練習時間で、約1か月後の練習試合では早くも安打を打つなど、左打ちを自分のものにした。
俊足という武器をより活かせる両打ちとなることでプレーの幅は大きく広がり、本人も「これが自分の野球人生で大きな節目」になったと語っている。
2年夏は、先発メンバーのうち5人が1・2年生というチームで3番を打ち、25打数13安打の大活躍をみせたものの、県大会ベスト8。
主将を務めた3年の夏は県大会3回戦敗退。
甲子園出場はなし。
高校卒業後は上武大学ビジネス情報学部へ進学し、硬式野球部に入部した。
1年の春からレギュラーとして活躍。
11月の第40回記念明治神宮野球大会では関東五連盟第一代表として出場。
初戦の関西国際大戦では、1番センターとしてスタメン出場し、第一打席で本塁打を打っている。
この時、プロ入り後にチームメイトとなる益田直也、松永昂大と対戦している。
準決勝では明治大学に4-5と逆転勝ちしたものの、決勝で小石博孝擁する立正大学に0-2で敗れ、準優勝となった。
関甲新学生野球リーグで3年の春季から3季連続で外野手ベストナインを、4年の春リーグ戦では最多盗塁賞(11盗塁)を、秋リーグでは打点王を獲得。
4年時は主将を務めた。
リーグ通算成績は、4年間で通算出場90試合、107安打、7本塁打、51打点、打率.322。
2012年、ドラフト会議にて千葉ロッテマリーンズから4位指名を受け、11月27日に群馬県伊勢崎市の上武大学伊勢崎キャンパスにて仮契約を結び、「アピールポイントの足を活かして、まずは一軍に上がりたいです」と抱負を述べた。
契約金4,000万円、年俸1,000万円(金額は推定)、背番号は「65」。
2013年は、開幕は二軍で迎えるもイースタン・リーグで打率.303、4本塁打を記録したことから、太ももを負傷した角中勝也の穴埋めとして5月12日に初の昇格を果たすと、同日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(QVCマリンフィールド)で「7番・右翼手」でプロ初の先発出場。
3回裏のプロ初打席で永井怜の初球を振りぬくと、右翼席へ飛び込む先制ソロ本塁打となった。
初打席本塁打は同年3月29日のロペス(巨人)以来、史上54人目。
初球に限れば2001年5月1日のショーゴー(中日ドラゴンズ)以来、史上7人目。
さらに、新人に限れば1950年5月10日の塩瀬盛道(東急フライヤーズ)以来、史上2人目。
塩瀬は投手だったため、史上初の新人野手によるプロ初打席初球初本塁打となった。
この試合では猛打賞も達成しているが、デビュー戦で初打席本塁打を含む猛打賞を記録したのは駒田徳広、稲葉篤紀以来、史上3人目。
フレッシュオールスターゲームでは6回二死二塁の場面で本塁打を打つなど、3安打2打点の成績でMVPを獲得。
クライマックスシリーズの西武とのファーストステージ第1戦(西武ドーム)ではCS初打席となった8回に3点本塁打を打った。
シーズン公式戦とポストシーズンの両方で初打席初本塁打は日本プロ野球史上初。
イースタンでの成績は打率.335(イースタン2位)、本塁打8、打点38。
盗塁はリーグトップの26盗塁という成績で、日本野球機構「2013年度表彰選手」の最多盗塁(イースタン・リーグ)記録で表彰された。
2014年は、2年連続で開幕一軍を逃したものの、4月1日にシーズン初の一軍登録。
打撃不振で4月13日に登録を抹消されたが、二軍での調整中にフルスイング重視の打撃フォームへ戻したところ、5月13日に再登録を果たした。
セ・パ交流戦の開幕カードに当たる5月20日の対東京ヤクルトスワローズ1回戦(QVCマリンフィールド)では、6回裏に代打…
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