サンディー・アロマー・シニア, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1165193 / CC BY SA 3.0

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サントス・アロマー・コンデ・シニア(Santos “Sandy” Alomar Conde, Sr. , 1943年10月19日 – )は、プエルトリコ・サリナス出身の元プロ野球選手(二塁手)。
右投両打(スイッチヒッター)。
息子サンディー・アロマー・ジュニアは現在クリーブランド・インディアンズのコーチ。
ロベルト・アロマーは二塁手として活躍し、アメリカ野球殿堂入りした。
ミルウォーキー・ブレーブスに入団し、持ち前の好守と俊足でメジャー昇格し、1964年9月15日にメジャーデビュー。
なかなかレギュラーには定着できず、1967年にはニューヨーク・メッツに移籍し、さらにそのシーズン途中にシカゴ・ホワイトソックスに移籍。
1968年に133試合に出場し、レギュラーとなり21盗塁を記録するが、打撃力は非力で、打率.253で本塁打0、12打点に終わる。
1969年途中にはカリフォルニア・エンゼルスに移籍。
合計156試合に出場し、メジャー初本塁打も記録。
1970年と1971年には全162試合に出場。
オールスター出場も果たした。
また、1971年の689打数は、現在でもエンゼルスのシーズン球団記録である。
1974年途中にニューヨーク・ヤンキースに移籍。
1975年には151試合に出場するが、チームがワールドシリーズ進出を果たした1976年にはウィリー・ランドルフに正二塁手の座を奪われ控えとなり、ア・リーグチャンピオンシップシリーズで1試合に出場したのみで、ワールドシリーズでは出番がなかった。
1977年にはテキサス・レンジャーズに移籍し、1978年限りで現役引退。
現役引退後は、サンディエゴ・パドレス、シカゴ・カブス、コロラド・ロッキーズでコーチ、及び傘下マイナーリーグの監督・コーチを歴任。
パドレスのコーチ時代には二人の息子、サンディー・ジュニアとロベルトがメジャーに昇格。
2005年にはメッツの一塁ベースコーチに就任し、2007年には三塁ベースコーチに異動。
ロベルトはすでに現役引退したが、サンディー・ジュニアはメッツで現役を続けて、2008年には現役引退後メッツの捕手コーチに就任した。
エンゼルス時代のチームメイトで、アメリカ野球殿堂入りのノーラン・ライアンは通算7回ノーヒットノーランを記録したが、そのうち最初の2回では二塁手を務めていた。
そして、レンジャーズ時代の7回目(最後)のノーヒット・ノーランでは息子ロベルトが相手トロント・ブルージェイズの二塁手として出場していた。
また、1970年にはクライド・ライト(のち讀賣)のノーヒットノーラン試合で二塁手を務め、最後の打者となったフェリペ・アルーのセカンドゴロをさばいてダブルプレイにしとめた。
1997年のワールドシリーズでは、クライドの息子ジャレット・ライト(投手)と、アロマーの息子サンディー・ジュニア(捕手)がクリーブランド・インディアンスでバッテリーを組んで出場したが、アルーの息子モイセズ・アルーが在籍していたフロリダ・マーリンズに敗れた。

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