髙谷裕亮, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=798107 / CC BY SA 3.0
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髙谷 裕亮(たかや ひろあき、1981年11月13日 – )は、栃木県小山市出身の元プロ野球選手(捕手)。
右投左打。
福岡ソフトバンクホークス二軍バッテリーコーチ。
小山市立大谷東小学校では2年生時に1歳上の兄とともに雨ケ谷学童に所属して軟式野球を始め、三塁手だった。
小山市立大谷中学校でも軟式野球部に所属し三塁を守った。
小山北桜高校へ進学すると強肩を買われて捕手に転向した。
投手だった兄と兄弟バッテリーを組んだ。
甲子園への出場はなかったが、2年春に同校最高成績となる県大会ベスト4に進出するなどチームを牽引した。
高校卒後はプロ野球選手を目指して富士重工業に進んだ。
1年目は原因不明の左膝痛に悩まされ、後に腰痛も併発し、公式戦に1試合も出場しないまま2年目の12月に退社した。
目標を失い、造園業を営む実家を受け継ぐことも考えたが、野球への情熱を捨てられず1年間の浪人を経て2003年に一般試験で地元の白鷗大学に合格した。
白鷗大学の1年目は規定により1年間公式戦へ出場できなかったが、2年春から主将を務め、3年時には全日本大学野球選手権大会に出場した。
3年間で関甲新リーグ新記録となる16本塁打、82打点を記録、ベストナインも4度受賞するなどリーグ屈指の選手に成長した。
2006年11月21日の大学生・社会人ドラフトで3巡指名を受け福岡ソフトバンクホークスへ入団した。
背番号は12となった。
2000年代 2007年、二軍で関西遠征中だったが、一軍で右手首を痛めた大野隆治に代わり急遽昇格が決定し、4月12日に初めて一軍出場選手登録され、4月17日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で5回から代打でプロ初出場し、初打席は永井怜の前にショートライナーに倒れた。
7回にはホセ・フェルナンデスの二盗を刺し、8回第2打席には四球から出塁し、永井の暴投の間に三塁まで進塁、本多雄一の適時打で生還してプロ初得点も記録した。
4月19日に二軍へ降格し、6月5日に一軍へ昇格した。
6月23日のセ・パ交流戦、対中日ドラゴンズ戦で5回に代打で起用され、川上憲伸の3球目を叩きつけ二塁への内野安打でプロ初安打を記録した。
翌6月24日の同カードで8番捕手としてプロ初の先発出場を果たした。
6回3打席目無死二・三塁の場面で久本祐一から右越え2点適時二塁打を打ち、これがプロ初打点となった。
守っては先発の和田毅らをリードし9回2失点に抑え、攻撃では4打席で3出塁の活躍だった。
続く6月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦でも2試合目の先発出場ながら内外を使い分けるリードで杉内俊哉を完封に導き、柴原洋のサヨナラ本塁打を呼んだ。
以後5試合先発したが5試合で0勝3敗、打率.136と調子を崩して控えとなり、8月6日に二軍へ降格し、そのままシーズンを終えた。
捕手難というチーム事情もあり正捕手として期待されたが、1年目の出場は12試合にとどまり、先発出場7試合、フル出場した3試合では2勝1敗、1完封勝利だった。
二軍では31試合に出場し打率.253、出塁率.352を残し、75打数ながら3本塁打だった。
2008年、的山哲也が右膝を痛めたのをきっかけに7月5日に一軍に昇格し、7月8日から先発出場を続けて後半戦の正捕手として定着した。
7月15日の埼玉西武ライオンズ戦で先発出場し、2回に石井一久から勝ち越し適時打で本拠地福岡 Yahoo! JAPANドーム初安打・初打点を記録し、3回にも山岸穣から適時打、5回には山岸から再び安打でプロ入り初猛打賞を記録するなど活躍し、プロ入り初のヒーローインタビューを受けた。
7月16日の同カードでは5回に涌井秀章からプロ初本塁打となる先制ソロ本塁打を打ち、8回4点ビハインド二死一・二塁の守備では打球をベンチに飛び込みながら捕球してピンチを救い、延長12回同点二死一・二塁では小野寺力の149km/hの直球をライト前に弾き返し、プロ初となるサヨナラ打で連夜のヒーローとなった。
8月2日に山形県野球場で行われたフレッシュオールスターゲームに8番捕手として先発出場したが、守っては5回8失点、打っては3打数無安打と活躍できず、6回裏の守備から交代となった。
8月20日の対西武戦で先発出場した際に新垣渚がプロ野球記録5暴投を更新、日本ワーストタイの1イ…
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