京山将弥, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3567206 / CC BY SA 3.0
#日本の野球選手
#近江高等学校出身の人物
#横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手
#滋賀県出身の人物
#1998年生
#存命人物
京山 将弥(きょうやま まさや、1998年7月4日 – )は、滋賀県大津市出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
横浜DeNAベイスターズ所属。
晴嵐小学校1年時に晴嵐スポーツ少年団で軟式野球を始めると、北大路中学校への在学中には、大家友和が設立した草津シニア・リトル・パンサーズに所属していた。
後に述懐したところによれば、大家はチームのゼネラルマネジャーも務めていたため、当時は「(自分の)手の届かないほどの人」だったという。
近江高等学校への進学後は、1年夏からベンチ入りを果たすと、2年時春の選抜大会に県岐阜商との2回戦で登板。
3年夏の選手権滋賀大会では、決勝までの4試合にすべて登板すると、26イニング連続無失点と30奪三振を記録した。
高島高等学校との決勝では、6回の打席で先制の2点適時二塁打を放つとともに、投げても10奪三振を記録。
3安打を許したものの、二塁を踏ませない完封勝利で、チームを本大会への出場に導いた。
もっとも、本大会では初戦で敗退した。
高校3年時には大学球界の強豪校からも進学を誘われていたが、プロ志望届を日本学生野球協会へ提出したことから、2016年のNPBドラフト会議で横浜DeNAベイスターズから4巡目で指名。
契約金4000万円、年俸550万円(金額は推定)という条件で入団した。
背番号は48。
2017年、シーズンを通じて二軍生活に終始したが、7月13日のフレッシュオールスターゲーム(草薙球場)では、イースタン・リーグ選抜の投手として4回表に救援登板。
1イニングを三者凡退に抑えた。
イースタン・リーグの公式戦では、主に先発で16試合に登板。
通算の投球イニングは99回1/3で、チームの投手でただ1人リーグの最終規定投球回に到達するとともに、6勝6敗、防御率4.17を記録した。
シーズン終了後の秋季キャンプから、中学生時代に指導を受けた大家が二軍投手コーチに就任。
大家からカットボールの投げ方を教わった後に、台湾でのアジアウインターベースボールリーグ(AWB)へ参加した。
AWBでは、NPBイースタン選抜の一員として4試合に先発。
韓国プロ野球(KBO)選抜との決勝戦でも先発したが、勝ち負けはつかなかった。
2018年、オープン戦序盤の3月5日に入団後初めて一軍に合流すると、当日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で先発を任された。
「1日限定」という条件での合流だったが、5回無失点の好投で勝利投手になったことから、一軍監督のアレックス・ラミレスが「一軍の先発陣に異変があったら再び昇格させる」と明言。
実際に一軍の先発ローテーション候補から故障者が相次いだため、入団後初めての開幕一軍入りに至った。
4月1日に、東京ヤクルトスワローズとの開幕カード第3戦(横浜スタジアム)で、先発投手として一軍公式戦にデビュー。
19歳9か月での抜擢ながら、5回1失点の好投で初勝利を挙げるとともに、チームをレギュラーシーズン初勝利へ導いた。
DeNAに所属する10代の投手が、NPBの一軍公式戦開幕カードで先発勝利を挙げた事例は、前身の球団を含めてもこの試合の京山が初めてである。
さらに、4月8日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム)での先発勝利によって、球団史上初めて一軍デビュー戦からの2戦2勝を記録。
次に登板した4月15日の対中日ドラゴンズ戦(横浜)で連勝記録を3にまで伸ばしたが、4月22日の対広島戦(横浜)で一軍公式戦初黒星を喫したため、ドラフト制度導入後(1966年以降)の日本人投手による一軍公式戦初登板試合からの最多連勝記録である4連勝(1978年に三浦広之・2003年に石堂克利が達成)には及ばなかった。
以降の先発登板試合で中盤までに降板することが相次いだ影響で、5月中盤から一軍と二軍を何度も往復したものの、一軍では7月29日の対広島戦(マツダ)でシーズン5勝目を記録。
DeNAの高卒2年目以内の投手としては、横浜大洋ホエールズ時代の1987年に中山裕章が入団2年目で記録して以来31年ぶりであった。
加賀繁の引退試合として催された9月21日の対中日戦(横浜)では、打者1人限定で先発した加賀の後を受けて、一軍公式戦初の救援登板を経験。
プロ入り後最長のイニング(8回2/3)で「準完投」を達成するとともに、失点を1にとどめてシーズン6勝目を挙げた。
一軍公式戦には13試合…
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