ユニエスキー・ベタンコート, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1044935 / CC BY SA 3.0

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ユニエスキー・ベタンコート・ペレス(Yuniesky Betancourt Pérez , 1982年1月31日 – )は、キューバ共和国ビジャ・クララ州サンタ・クララ出身の野球選手(内野手)。
右投げ右打ち。
キューバのサンタ・クララに生まれ、幼い頃はキューバ代表の二遊間コンビだったヘルマン・メサとフアン・パディーヤのプレーを観戦して育った 。
2000年夏の第19回AAA世界野球選手権大会にジュニアナショナルチームの正遊撃手として出場し、打率.523の好成績を残した。
その後はキューバ国内リーグであるセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルのナランハス・デ・ビジャ・クララに入団したが、チームには代表常連のスター遊撃手であるエドゥアルド・パレが在籍していたため、二塁手にコンバートされた。
キューバでの生活は厳しく、ベタンコートは当時の事を「キューバでは、みんなその日暮らしさ。その瞬間を生きる事に精一杯で、中長期的視点で将来の事を考えるのはおろか、明日の事すら考える時間がなかったからね。」と振り返っている。
2003年12月4日、他の仲間と共にボートでキューバから逃亡してアメリカ合衆国へ密入国、その後カリフォルニア州ロサンゼルスを経由してメキシコに入国し、不正に入手したパスポートを持ってアメリカ合衆国に入り直す、という手順で亡命を果たした。
当時は入国の経緯について「11月28日、9人の仲間と共にいかだに乗ってキューバから逃亡し、4日後にメキシコのキンタナ・ロー州カンクンに漂着した。」と偽っていたが、真相が明らかになるのは2006年12月になってからであった。
入国後にフリーエージェント(FA)を宣言し、複数の球団と自由に交渉する権利を得た。
2005年1月25日にMLBのシアトル・マリナーズと4年総額282万6000ドルの契約を結び、入団した。
この年のうちにマイナーリーグのAA級サンアントニオとAAA級タコマを経て、7月28日の対クリーブランド・インディアンス戦でMLB初出場。
また、昇格前にオールスター・フューチャーズゲームの世界選抜に選ばれている。
2006年以降はマリナーズの正遊撃手としてプレーする。
1983年生まれの二塁手ホセ・ロペスとの若手コンビは、以後のマリナーズを担う存在として期待されていた。
2008年までの3年間、どんな状況でもお構いなしに早いカウントから振っていく粗い打撃が目立ち、毎年打率.280前後に対して出塁率は.300をやや超える程度に留まる。
2008年シーズン終了後に就任したドン・ワカマツ監督が「打席内で落ち着きがない。打者として才能があるだけに、新しいスタイルを教えるのが我々の責任でもある」と指摘し、打撃スタイル矯正に乗り出す意向を表明したほどだった。
2009年も正遊撃手として前半戦は63試合に出場したが、打率.250・出塁率.278は共に過去最低の数字。
課題とされていた早打ちも、245打席で相手に投げさせた球数は802球で、1打席あたりの球数3.27は過去3年の平均3.20とほぼ変わらない水準だった。
6月24日の試合で右大腿を傷めて故障者リスト(DL)入りする。
2009年7月10日にマリナーズがトレードを成立させ、復帰前にマイナーリーガー2人との交換でカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍する事になった。
ロイヤルズでは正遊撃手のマイク・アビレスが故障で復帰の見通しが立たず、傘下のマイナーリーグにもめぼしい選手がいない事から、ベタンコートにはレギュラーとしての期待がかけられていた。
移籍後は71試合に出場している。
2010年4月5日のデトロイト・タイガースとのシーズン開幕戦に7番・遊撃手として先発出場し、2回裏の第1打席にジャスティン・バーランダーから2点本塁打を放つ。
下位打線を担ったこの年に151試合に出場したベタンコートは、3本の満塁本塁打を含むチーム最多の16本塁打・78打点を記録した。
2010年シーズン終了後にミルウォーキー・ブルワーズとの2対4のトレードでザック・グレインキーと共にミルウォーキー・ブルワーズへ移籍した。
2011年は、…

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