平田良介, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2724467 / CC BY SA 3.0

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平田 良介(ひらた りょうすけ、1988年3月23日 – )は、大阪府大阪市城東区出身のプロ野球選手(外野手)。
右投右打。
中日ドラゴンズ所属。
小学1年から「関目ジュニアスター」で野球を始め、中学時代はボーイズリーグの「大阪北」および「大阪都島」に所属。
萬谷康平とは家が道を挟んで2軒隣という幼なじみであり、小学1年から中学1年まで同じ少年野球チームに所属していた。
大阪桐蔭高校では1年夏から6番でレギュラー、秋から4番を任された。
高校時代は辻内崇伸と同期で、辻内の話では、平田の名前はすでに大阪一円で知れ渡っており肉体的にも入学時で完成していたため1年生で唯一入学直後から上級生に交じっての練習参加を許されたという。
なお、平田3年時の1年生に中田翔と岡田雅利がいた。
高校通算70本塁打を記録。
2年時には第76回選抜高等学校野球大会に出場。
1回戦の二松学舎大付戦で本塁打を打ち、また3年時に出場した第87回全国高等学校野球選手権大会の準々決勝・東北戦では、PL学園・清原和博以来の1試合3本塁打を記録した。
その後、準決勝で田中将大(当時2年生)擁する駒大苫小牧と対戦。
しかし先発の田中に4打数無安打に封じ込められ、チームも延長戦の末敗退した。
甲子園通算5本塁打は史上4位。
9月頃にアジアAAA選手権における韓国戦で右肩を亜脱臼したため手術する予定だったが、予想以上に右肩の状態が良化し、手術は受けなかった。
高校生ドラフトで中日ドラゴンズに1巡目指名された。
2006年1月9日に中日ドラゴンズ選手寮に入所。
8月26日に初の一軍昇格を果たすと、同日の横浜ベイスターズ戦(ナゴヤドーム)の9回裏に英智の代打として、プロ初出場を果たした。
結果は三塁ゴロだった(投手:木塚敦志)。
2007年は、10月4日に「7番・センター」としてプロ初のスタメン出場し、延長11回裏の満塁の場面で死球を受けたことでプロ初打点を挙げる。
10月6日の対東京ヤクルトスワローズ戦で、プロ初安打を打つ。
翌7日の対横浜戦では3安打を打ち、初の猛打賞を記録。
終盤の活躍と堅実な守備が買われ、その年にセンターでスタメン出場することが多かった英智の故障もありクライマックスシリーズにおいては全試合スタメンで起用される。
日本シリーズでもホーム試合ではスタメン起用され、第3戦では安打を打ち、第5戦においては北海道日本ハムファイターズの先発投手のダルビッシュ有から犠飛を打ち、この試合唯一の打点を挙げた。
なおこの試合に1-0で勝ち、この打点は日本一を決める決勝点となり、球団として前回1954年の日本一の際の井上登と同じく、高卒2年目の野手が日本一を決める決勝点を挙げたことになった。
この犠飛はストレートを打ったのだが「スライダーを投げられていたら打てなかった」と後に語っている。
日本シリーズでの活躍が認められて12月の球団主催によるハワイへの優勝旅行にも参加する予定だったが出発前日の練習中に足を捻挫し、急遽参加を取りやめた。
2008年の春季キャンプは前述の足の捻挫もあって二軍スタートだったものの、第4クールで一軍に合流。
森野将彦が故障で離脱したこともあり、ほとんどのオープン戦にセンターでスタメン出場。
森野の代わりとして開幕スタメン入りも確実視されたが、森野が開幕までに回復し、またオープン戦での成績も相まって、開幕一軍入りとはならなかった。
5月16日、森野の怪我による離脱で、二軍で83打数15安打、打率.181、2本塁打と、調子が上がらない中、このシーズン初の一軍昇格、その日の対横浜戦で即スタメン起用された。
しかし目立った活躍は見られず5月26日に二軍に降格した。
6月11日に再昇格。
9月7日、対横浜戦の9回裏一死の場面に代打で登場し、横山道哉から一軍でのプロ初本塁打を打つ。
これが同時にサヨナラの殊勲打となった。
その後もシーズン終了まで一軍に定着。
主に代打で起用された。
シーズン終了後の秋季キャンプでは故障離脱してしまい、春季キャンプの二軍スタートが決まる。
2009年は、前述の通り春季キャンプは二軍スタートとなった。
一軍に合流すること…

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