立岡宗一郎, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1636216 / CC BY SA 3.0
#日本の野球選手
#福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手
#読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
#鎮西高等学校出身の野球選手
#熊本県出身の人物
#1990年生
#存命人物
立岡 宗一郎(たておか そういちろう、1990年5月18日 – )は、熊本県葦北郡田浦町(現・芦北町)出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。
右投左打。
読売ジャイアンツ所属。
芦北町立田浦中学校では軟式野球部に所属し、投手として出場した熊本県大会で優勝、九州大会では準優勝。
中学生にして球速130km/h中盤を記録。
野球以外にも陸上短距離選手として多く入賞している。
鎮西高等学校では松井稼頭央への憧れから野手に転向し、1年春からベンチ入り。
3年次は主将を務めたが、最高成績は県大会優勝で、全国大会出場はない。
走(50m走:5秒9)、攻(高校通算28本塁打)、守(遠投110m・速球の最速147km/h)三拍子揃った逸材として「秋山幸二2世」「新庄剛志2世」と注目を集め、2008年ドラフト会議において、福岡ソフトバンクホークスから2巡目で指名され入団。
外野手としての指名だったが、入団前に遊撃手へのコンバートを志願した。
2009年は一軍公式戦出場はなく、ウエスタン・リーグで61試合に出場して、打率.222・2本塁打だった。
秋のキャンプでは王貞治会長から打撃指導を受けた。
2010年8月14日に一軍初昇格を果たすと、翌日の北海道日本ハムファイターズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)9回裏に小久保裕紀の代走として初出場。
一軍を経験させるのが目的だったこともあり、翌日に登録抹消された。
2012年6月13日にレビ・ロメロ、福元淳史との交換トレードで、久米勇紀と共に読売ジャイアンツへ移籍。
背番号は58となった。
巨人に移籍直後の7月10日、イースタン・リーグの楽天戦の守備で味方と交錯し左肘靭帯断裂。
肘の痛みから右打席でバットを振れなくなったため、9月にこれまでの右打ちから左打ちに転向した。
それまで左打ちは中学時代に多少経験があるだけだったが、秋のフェニックスリーグでは打率3割を記録した。
2013年は二軍で主に1番打者として起用され打率.296を記録し、5月14日に移籍後初の一軍登録。
5月15日の対千葉ロッテマリーンズ戦で益田直也からプロ入り初安打を記録した。
5月24日、右打ちから両打ちに登録を変更した(実際に打つのは左打ち)。
7月2日、阪神タイガース戦(甲子園での延長11回表二死満塁で押し出し四球を選び、首位攻防戦の初戦の勝利に貢献した。最終的に、46試合出場、打率.203、0本塁打、7打点、1盗塁を記録。オフに、400万円増の推定年俸1,000万円で契約を更改した。 2014年は出場機会が激減した(2試合)。
秋にはフェニックス・リーグに参加した。
12月24日、翌シーズンから外野手登録となることが発表された。
オフに、100万円減の推定年俸900万円で契約を更改した。
2015年、5月下旬に一軍初昇格を果たすと、5月の22打数だけで9安打を打ち首脳陣の信頼を掴んだ。
チーム打率がセ・リーグ最下位に沈む中、後半戦は中堅手のスタメンに定着し、8月には月間打率4割を記録し、月間MVP候補にも選ばれていた。
最終的に、339打数と規定打席未到達ながら打率.304、0本塁打、14打点、16盗塁を記録し、飛躍の年となった。
オフに、2,700万円増の推定年俸3,600万円で契約を更改した。
2016年から公式のプロフィールが両打ちから左打ちに変更されたが、将来的にスイッチヒッターに挑戦する意欲を示している。
3月29日の対横浜戦においてプロ初本塁打を打った。
左脇腹の故障の影響で51試合の出場に留まり、打率.229、2本塁打、9打点、9盗塁を記録。
オフに、700万円減の推定年俸2,900万円で契約を更改した。
2017年は、FA加入した陽岱鋼が故障で出遅れたこともあり、開幕から中堅手で先発出場を続けたが、打率は前年同様2割前半と結果を残せず、陽の復帰後はシーズン終了までほとんど二軍暮らしに終わった。
最終的に、62試合出場、打率.208、0本塁打、10打点を記録。
盗塁は成功4回に対して失敗5回と課題を残した。
オフに、現状維持の推定年俸2,900万円で契約を更改した。
2018年は、9月23日の阪神戦で藤川球児から勝ち越し適時打を打ちヒーローインタビューを受けたものの、前年を下回る42試合出場、スタメンの機会を減らし60打席に終わり、打率.231、0本塁…
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