福井優也, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1014414 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#済美高等学校_(愛媛県)出身の人物
#早稲田大学野球部の選手
#広島東洋カープ及び広島カープの選手
#東北楽天ゴールデンイーグルスの選手
#岡山県出身の人物
#1988年生
#存命人物
福井 優也(ふくい ゆうや、1988年2月8日 – )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する岡山県英田郡西粟倉村出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
西粟倉小学校3年からソフトボールを始め、この頃からプロ野球選手になることだけを考えていた。
夏は野球、冬はクロスカントリースキーで全国大会に出場した経験もある。
西粟倉村立西粟倉中学校では兵庫県の硬式野球チーム「佐用スターズ」に入り2年から投手。
2003年に愛媛県の済美高校へ入学。
当時創部されたばかりの硬式野球部で監督に就任した上甲正典(前・愛媛県立宇和島東高等学校硬式野球部監督)を慕っての入学で、1年時の秋からエースの座をつかむと、11月の明治神宮野球大会東北高校戦で2安打完封勝利(7回コールド)。
2年春の第76回選抜高等学校野球大会でチームを創部後初めて甲子園球場の全国大会出場に導いたばかりか、初優勝を成し遂げた。
2年夏の第86回全国高等学校野球選手権大会で甲子園球場のマウンドに再び立つと、準決勝までの4試合で先発完投勝利を果たした末に、春夏連続で決勝へ進出。
風邪で体調を崩しながらも、自ら志願して先発したが、田中将大を擁する駒大苫小牧高校の前に春夏連覇を阻まれた。
もっとも、選手権大会の終了後には、田中と共に日米親善高校野球へ参加。
3年夏の第87回全国高等学校野球選手権大会でも1勝するなど、在学中には甲子園球場の全国大会で通算9勝を挙げた。
当時の1学年先輩に、鵜久森淳志や高橋勇丞がいる。
高校3年時の秋に迎えた2005年のNPB高校生ドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)から4巡目で指名。
いったんは入団の意思を示したものの、後に固辞したうえで、大学へ進学することを表明した。
大学への進学に際しては、4年時のNPBドラフト会議でどの球団からも指名されずに硬式野球部のある企業へ就職する事態を想定したうえで、早稲田大学か慶應義塾大学への進学を検討。
当時早稲田大学野球部の監督を務めていた應武篤良から「進学先を早稲田だけに絞るのなら入部させる」と言われたこともあって、早稲田大学への進学を決めた。
しかし実際には、入部に有利な推薦入試の締め切りに間に合わず、一般受験にも合格しなかった。
このため、2006年には浪人生活を送りながら、ワールドウイング(鳥取市内のトレーニング施設)で勉強とトレーニングに励んだ。
2007年、早稲田大学スポーツ科学部トップアスリート選抜入試に合格。
斎藤佑樹、大石達也らと同期で推薦入学し、野球部に入部。
斎藤とともに2人の甲子園優勝投手は将来のダブルエースとして期待された。
福井は後に「斎藤と大石は目標であり自分を満足させなかったライバル。自分は3番目です」と語っている。
1年春の東京六大学野球リーグ2戦目に先発登板するが3回途中でノックアウト、夏に右肩痛を発症しベンチ入りメンバーから外される。
この頃はマウンド上での態度が悪く投球に悪影響を与えていたが、周りからの指摘で改めたことで冷静に投球できるようになったという。
2008年5月31日、東京六大学野球春季リーグ早慶戦1回戦に4番手でマウンドに上がり、2回を打者8人1安打無失点に抑えリーグ戦初勝利。
2009年春からは先発に定着し土曜日の初戦に斎藤、日曜日の2戦目に福井が投げるというローテーションだった。
福井の出身地である岡山県英田郡西粟倉村では広島東洋カープに2010年プロ野球ドラフト会議で1位を指名されたことを記念して垂れ幕が掲げられた。
4年次の2010年春からは早稲田のエース番号11を背負い、9月12日、東京六大学野球秋季リーグ法政大学2回戦でリーグ戦初完投を記録し、通算10勝目。
リーグ通算35試合に登板、11勝3敗、防御率2.57、144奪三振。
2010年のNPBドラフト会議で、広島東洋カープから1巡目で単独指名。
契約金1億円、年俸1,500万円(金額は推定)という条件で入団した。
背番号は11。
この会議の1巡目では、大石が(広島を含む)6球団からの重複指名の末に埼玉西武ライオンズ、斎藤が4球団からの重複指名の末に北海道日本ハムファイターズが入団交渉権を獲得。
同じ大学から3人の投手が別々の球団の1巡目指名を受けた事例は、NPBのドラフト会議史上初めてで、3人とも指名後に入団している。…

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