ベーブ・ハーマン, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1927342 / CC BY SA 3.0

#アメリカ合衆国の野球選手
#ブルックリン・ロビンスの選手
#ブルックリン・ドジャースの選手
#シンシナティ・レッズの選手
#デトロイト・タイガースの選手
#バッファロー出身の人物
#1903年生
#1987年没
ベーブ・ハーマン(Floyd Caves “Babe” Herman、1903年6月26日 – 1987年11月27日)は、主に1930年代に活躍したアメリカ合衆国のプロ野球選手。
ポジションは右翼手。
ニューヨーク州・バッファロー生まれ。
左投げ左打ち。
主に1920年から1930年代にブルックリン・ドジャーズ(現ロサンゼルス・ドジャーズ)で活躍した。
通算打率.324、3度のサイクル安打を記録した強打者だったが、守備や走塁でとんでもないボーンヘッドもし、そのことでもブルックリンのファンから親しまれた選手である。
ハーマンは1922年、18歳の時には既にデトロイト・タイガース配下のマイナーリーグに所属し、春のキャンプではタイ・カッブの代打を務めたこともあった。
しかしその後トレードに出され、1926年にブルックリン・ドジャーズからメジャーリーグに登場するまで、5年間で6つのマイナーリーグの球団を渡り歩いた。
ハーマンは1925年にブルックリンと契約したが、当時のスカウトは「守っている時の彼はある意味滑稽だったが、ある試合で6安打を打ったのを見て、契約することを決めた」と証言している。
ハーマンは1926年にブルックリンのルーキーとしてデビューし、最初は一塁を守っていた。
1年目から打率.319、81打点と打つ方で活躍したが、2年目には21個ものエラーを記録し、外野手にコンバートされることになる。
3年目には再びリーグで5位となる打率.340と91打点の成績を残したが、やはり守備でのエラーの数もリーグ最多だった。
次の1929年と1930年にハーマンは打ちまくり、1929年の成績は打率.381と217安打、105得点、113打点にもなり、同年のMVP候補となる。
また1930年には241安打と130打点をあげ、打率も4割に迫る.393という成績を残したが、両年とも打率はリーグ2位だった。
1929年はレフティ・オドールが打率.398を記録し、また1930年はビル・テリーが打率4割超えを達成(.401)した年だった。
その後1932年の開幕直前に、ハーマンはシンシナティ・レッズにトレードされ、翌年から2年間はシカゴ・カブスに在籍した。
カブス在籍時の1933年6月20日には1試合3本塁打という記録を作り、また同じ年の9月30日には、自身3度目となるサイクル安打を記録するなど、その打棒は相変わらずだったが、守りでのエラーの多さからか、その後もハーマンは毎年のようにチームを変わり、1937年にはマイナーに降格してしまう。
降格後ハーマンはしばらくパシフィック・コーストリーグなどでプレーをしていたが、第二次世界大戦が佳境となった1945年に、42歳でブルックリンに戻ってくることになる。
ブルックリンに復帰した最初の打席で、ハーマンは観衆から大きな拍手で迎えられた。
声援に応えたハーマンはこの打席ヒットを放ったが、ベースを廻ろうとして一塁ベースにつまづいてしまった。
同年ハーマンは37試合に出場し、.265の打率を残して選手を引退した。
1951年にピッツバーグ・パイレーツのコーチを1年間つとめ、1987年にカリフォルニア州で亡くなった。
打撃面で様々な活躍をしたハーマンだったが、守備や走塁面では考えられないようなボーンヘッドがいくつもあり、チームメイトだったダジー・ヴァンスが、「エベッツ・フィールドの首なし騎手」(”the Headless Horseman of Ebbets Field”)とあだ名をつけるほどだった。
1926年8月15日のエベッツ・フィールドでのブレーブスとの試合でのこと、ブルックリンは満塁のチャンスをつかみ、ルーキーだったハーマンはライトに強烈なライナーを放った。
しかし、当たりが良すぎて打球がフェンスに跳ね返った後、すぐに内野に帰ってきたために、三塁走者は生還したものの、足の速くなかった二塁のダジー・ヴァンスは本塁へ進むことを一旦躊躇してしまう。
ヴァンスは三塁-本塁間に挟まれ三塁に戻ったが、そこには既に一塁にいたチック・フィースターが進塁してきていた。
ところが、そこへ二塁を回った打者のハーマンがすべりこんで来た。
ブレーブスの三塁手エディ・テイラーは、三塁ベース上に立っていた三人の走者に次々にタッチし、結局前の走者…

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