能見篤史, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=269942 / CC BY SA 3.0

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能見 篤史(のうみ あつし、1979年〈昭和54年〉5月28日 – )は、オリックス・バファローズに所属する兵庫県出石郡出石町(現在の豊岡市)出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
オリックスでは、投手コーチを兼任する。
2005年から2020年まで、阪神タイガースに在籍。
2019年にはNPBの一軍公式戦における40代の投手としてのシーズン最多登板数記録(2020年シーズン終了時点)、オリックス移籍後の2021年には通算1,500奪三振を歴代最年長(小宮山悟と並ぶ41歳11か月)で達成した。
また、阪神・オリックスの両球団で、一軍公式戦におけるセーブとホールドの球団最年長記録を達成。
NPBの投手では初めて、最年長セーブと最年長ホールドの球団記録を40代に複数の球団で樹立している。
神戸市で出生した後に、兵庫県警察の警察官だった実父が出石町内の駐在所へ赴任したことから、自身も生後4ヶ月から中学校を卒業するまで同町で過ごした。
小学校3年時に実父が指導者をしていた出石町内の軟式野球チーム「小坂プラッキーズ」で野球をスタート。
その後、鳥取城北高校普通科体育コースへ進学すると、硬式野球部のエースとして活躍した。
2年時には、夏の鳥取大会で準優勝を経験。
秋には、秋季県大会での優勝を経て、秋季中国地区大会でチームのベスト4進出に貢献した。
3年時の春季県大会ではノーヒットノーランを達成している。
在学中は全国大会と無縁であったが、上記の実績から、川口知哉(平安)・井川慶(水戸商業)とともに「高校生左腕三羽ガラス」と称されるほど注目された。
NPBの一部球団もドラフト会議の指名に向けて動いていたが、当時大阪ガス硬式野球部の監督だった竹村誠から熱心な誘いを受けた末に、同社へ入社した。
大阪ガスへの入社後は、熱心なファンですら投げる姿をほとんど見られなかったほど故障が相次いでいて、一時は「幻の投手」とまで呼ばれた。
入社5年目の2003年には、「来年もダメだったら社業に戻る」と考えていたという。
しかし、竹村の後任として監督に就任した湯川素哉から、「(左肘が)痛くても投げなさい。どうせなら、(左肘を)壊して辞めないか」という「最後通告」を受けたことから一念発起。
左肘に痛みを抱えながら投げ込みの球数を増やしたところ、その成果を湯川に認められたことから、対外試合での登板機会を徐々に増やした。
2003年の第30回社会人野球日本選手権大会では、予選から好調を維持したまま、本大会で決勝に進出。
決勝で日産自動車と対戦したが、延長11回に伊藤祐樹の適時打でサヨナラ負けを喫した。
翌2004年には、後に阪神でもチームメイトになる渡辺亮・久保康友らと共に、第22回ハーレムベースボールウィーク日本代表として第22回ハーレムベースボールウィークに出場。
その後に催された日本選手権でも、2年連続で本大会への出場を果たすと、野村克也監督率いるシダックス戦で野間口貴彦との投げ合いを制するなど活躍した。
JFE西日本との決勝戦にもリリーフで登板したが、延長15回表に福竹政人のソロ本塁打で決勝点を与えたため、2年連続で敗戦投手になった。
2004年のNPBドラフト会議自由獲得枠で、当時井川がエースとして活躍していた阪神タイガースに、契約金1億円、年俸1,500万円(金額は推定)という条件で入団した。
背番号は14。
担当スカウト池之上格。
2005年、開幕一軍入りを果たしたが、6月中旬に二軍へ降格。
7月末に一軍へ再び昇格すると、9月には一軍公式戦で2連勝を記録したものの、一軍公式戦の通算防御率は5点台に達した。
10試合に登板したウエスタン・リーグ公式戦では、投球回(38回)を上回る41三振を記録するとともに、22被安打、15与四球でWHIP0.97、防御率1.42を記録。
セントラル・リーグ優勝で臨んだ日本シリーズでも、救援での登板を経験した。
2006年、左のセットアッパーとして前年のセ・リーグ優勝に大きく貢献したジェフ・ウィリアムスが、膝の手術を受けた影響でレギュラーシーズンの開幕に出遅れたため、開幕から中継ぎとして一軍公式戦で登板。
チ…

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