田中貴也, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3128318 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#沖縄県立八重山商工高等学校出身の人物
#山梨学院大学硬式野球部の選手
#読売ジャイアンツの育成選手
#読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
#東北楽天ゴールデンイーグルスの選手
#京都府出身の人物
#1992年生
#存命人物
田中 貴也(たなか たかや、1992年8月27日 – )は、京都府南丹市出身のプロ野球選手(捕手)。
右投左打。
東北楽天ゴールデンイーグルス所属。
京都・園部中学校 ・大井ファイターズ時代に甲子園での大嶺祐太らの活躍に触発され、伊志嶺吉盛監督の指導を受けるため沖縄県石垣市の八重山商工に進学。
初めての寮生活や伊志嶺の厳しい指導で「もう毎日辞めたかったです」と当時を振り返っている。
2年時は1学年先輩の大嶺翔太とバッテリーを組み夏の県大会では唯一2年でベンチ入りしたが、エンドランで空振りするなど自身のミスもあり準決勝で興南に4-5で敗退。
監督から全部員と父兄がいる中で「おまえのせいで負けたんだ。おまえのせいで3年の高校野球が終わったんだ」と厳しく叱責され、それを見ていた母が自ら寮母となり京都から石垣島へ移り住むことを決意。
ちょうど当時の寮母が辞めるタイミングだったこともあり、監督の自宅を改装して作られた寮に引っ越し寝食を共にした。
3年夏は県大会3回戦で宮国椋丞を擁する糸満高校に敗れた。
甲子園出場はなし。
石垣島まで直々に訪れた山梨学院大学硬式野球部監督の高橋一三とコーチの伊藤彰から勧誘され山梨学院大学に進学し、1年春の開幕戦からリーグ戦に出場。
主将となった4年春にはチームを創部以来初の全国大会(第63回全日本大学野球選手権大会)出場に導いた。
4年春・秋にベストナインを獲得。
1年上に高梨裕稔がいる。
2014年のNPB育成ドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)から3巡目で指名。
育成選手として入団した。
入団当初の背番号は005。
2017年、WBCでチームを離れた小林誠司に代わって、育成選手ながらプロ入り初の一軍のキャンプに参加した。
オープン戦には6試合に出場、イースタンリーグ公式戦には7月31日までに二軍の捕手陣では最高の40試合に出場し、打率.253を記録した。
これが評価され登録期限日の7月31日に支配下登録を勝ち取り、背番号を63に変更した。
11月25日から台湾で開催されるアジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜に選出される。
オフには、ドラフト5位で指名された田中俊太が背番号63を着用することになったため、自身の背番号は69に変更となった。
2018年8月31日に初めて一軍に登録され、翌9月1日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で延長12回表に中川皓太の代打として一軍初出場。
ただし、相手投手が右の木下雄介から左の岩瀬仁紀に代わったことで打席に立つ前に代打の代打として吉川大幾が送られたため、守備も打撃も走塁も行わない珍しい初出場となった。
その後は出場機会がなく、9月11日に登録抹消された。
二軍では64試合に出場し打率.308を記録。
ファーム日本選手権・阪神戦でも先発マスクを任されたが4-8で敗れた。
2019年は8月29日に一軍に登録され、同日の対広島東洋カープ戦(東京ドーム)で大量リードの9回表に大城卓三に代わってマスクをかぶり、これが実質的な一軍初出場となった。
なお、9月1日に登録を抹消され、初打席は未体験のままこの1試合のみでシーズンを終えた。
二軍での出場試合数は前年の半数以下に減り、契約更改時に「悔しさしか残っていない1年」と振り返った。
シーズン終了後の11月23日からは、アジアウインターベースボールリーグへ2年ぶりに参加した。
2020年には、捕手登録の選手から、小林、炭谷銀仁朗、大城卓三と共にレギュラーシーズンの開幕一軍メンバーに名を連ねた。
しかし、実際には公式戦へ出場することなく、開幕4日後の6月21日に出場選手登録を抹消された。
抹消後は捕手出身の阿部慎之助二軍監督から「打つポイントを(抹消前より)もっと前に想定しながらバットを振れば、もっと強い打球を放てる」との金言を受けたが、一軍への復帰までには至らなかった。
2020年9月28日に、巨人から金銭トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍することが発表された。
背番号は55で、チームには2017年から田中和基が、2021年から田中将大がそれぞれ在籍しているため、報道やスコアボードでは「田中貴」という表記を用いることになった。
移籍後は、イースタン・リーグ10試合で通算打率….

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