石崎剛, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3079913 / CC BY SA 3.0
#日本の野球選手
#日本製鉄鹿島硬式野球部及びその前身チームの選手
#阪神タイガース及びその前身球団の選手
#千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手
#野球日本代表選手
#茨城県出身の人物
#1990年生
#存命人物
石崎 剛(いしざき つよし、1990年9月9日 – )は、茨城県古河市出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
千葉ロッテマリーンズ所属。
古河市立諸川小学校時代に野球を始める。
同市立三和北中学校では軟式野球部に所属。
茨城県立三和高校への進学後は、2年生の夏から3年生の春まで部員9人・指導者2人という環境下ながら、オーバースローから最速145km/hの速球を投げることで注目された。
しかし、甲子園球場での全国大会とは無縁で、卒業後に社会人野球の住友金属鹿島へ入社した。
住友金属鹿島への入社後に腰痛を発症したことから、腰への負担が少ない投球フォームを模索。
その結果、従来のオーバースローから右腕の位置を下げたスリークォーターへ転向した。
さらに、ストレートの最高球速が151km/hにまで向上し、チーム名が「新日鐵住金鹿島」に変わった入社4年目にはエース格へ台頭した。
第85回都市対抗野球大会では、チームは本選への出場を逸したが、富士重工業の補強選手として出場。
3試合の登板で無失点を記録するなど、日立製作所から補強された猿川拓朗と共に、富士重工業の準優勝に大きく貢献した。
2014年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから2巡目で指名。
契約金7,000万円、年俸1,200万円(金額は推定)という条件で、1巡目指名を受けた新日鐵住金鹿島でのチームメイト・横山雄哉と揃って入団した。
背番号は30。
同一年度のドラフト会議において同一チームに所属する2人の選手を1位と2位で指名したことは球団史上初めての出来事であり、同一チームに所属する2人の投手を同一球団が1位と2位で指名した事例は、NPBのドラフト会議史上初めてであった。
2015年には、沖縄春季キャンプへ参加し、一軍へ帯同。
オープン戦の中盤までは先発要員として調整していたが、勝ちパターンでの登板を視野に、救援要員として開幕一軍登録を果たした。
3月29日には、中日ドラゴンズとの開幕カード第3戦(京セラドーム大阪)で、5番手投手として公式戦にデビュー。
安藤優也が右肩の違和感で戦線を離れていた4月4日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では、安藤の代役としての起用を想定した首脳陣の判断で、1点ビハインドの6回裏1死満塁から登板した。
しかし、2つの押し出し四球と2点適時打で失点を重ね、チームは巨人戦通算1,000敗を喫した。
4月20日に出場選手登録を抹消されてからは、先発投手としての二軍調整を経て、5月26日に救援要員として一軍に復帰した。
5月30日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武プリンスドーム)では3回裏の途中から登板したが、中村剛也に満塁本塁打を浴び、5月31日に再び登録を抹消された。
以降は、2度にわたって一軍と二軍を往復し、一軍公式戦では通算8試合に登板し、防御率7.15で1ホールドを記録した。
また、ウエスタン・リーグ公式戦では29試合に登板。
10セーブを挙げてリーグ最多セーブ賞を獲得した。
シーズン終了後の契約交渉では、推定年俸1,180万円(20万円減)で契約を更改した。
2016年には、春季キャンプから二軍生活が続いた後に、5月4日の対中日戦(ナゴヤドーム)9回裏にシーズン初の一軍公式戦登板。
5月18日の同カード(甲子園球場)で、2点リードの6回表1死1・2塁から無失点で凌ぎ、ヒーローインタビューを受けた。
この試合から5月20日の対広島東洋カープ戦(甲子園)まで3試合連続の救援登板で無失点を続けたが、「野球生活では初めて」という右肘痛(インピンジメント症候群)を発症したため、5月21日に出場選手登録を抹消された。
一軍公式戦への登板は10試合にとどまったが、3ホールド、防御率1.68を記録した。
シーズン終了後の12月には、台湾で開かれたウィンターリーグに、NPBウエスタン・リーグ選抜の投手として参加。
登板した12試合をすべて無失点で凌いだ。
2017年には、レギュラーシーズンの前半戦を二軍で過ごした後に、8月9日に一軍へ昇格。
シーズン初の一軍マウンドであった8月11日の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)から9月5日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)まで、12登板試合続けて無失点で凌ぐなど、ビハインドの局面からのロングリリ…
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