岡田俊哉, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1918520 / CC BY SA 3.0
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岡田 俊哉(おかだ としや、1991年12月5日 – )は、和歌山県日高郡美浜町出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
中日ドラゴンズ所属。
1991年に和歌山県日高郡美浜町で生まれる。
小学2年から松原少年野球クラブで外野手として野球を始める。
松洋中学時代は日高マリナーズに所属し、2年から本格的に投手としてプレーする。
3年春にはボーイズ関西選抜に選ばれ、筒香嘉智らとともに世界大会に出場した。
智弁和歌山高等学校では1年春からベンチ入りし、夏には県大会準決勝・決勝、甲子園に出場し、1年生で唯一のベンチ入りを果たす。
初戦の対仙台育英高等学校戦で先発し、佐藤由規と投げ合って3回1/3を投げて被安打3・奪三振3・四死球2・2失点(自責点)で敗戦。
その後も2年春・夏と三季連続で甲子園に出場。
背番号10ながらもエースとして活躍し、連続8強入り。
2年夏の甲子園では3回戦まで自責点0。
4試合を投げて防御率1.40と好投し、チームのベスト8入りに貢献した。
3年夏は予選で32回1/3イニング無失点、44奪三振という内容で甲子園に出場したが、甲子園では体調不良により本来の投球が出来なかった。
しかし初戦を完封で飾るなど、不調に苦しみながらも甲子園では3試合37奪三振と存在感を見せ付け、その後の全日本選抜チームに選ばれた。
日米親善高校野球派遣前に練習試合で大学生相手に3回無安打7三振無失点で好投し、全日本選抜のエースに選ばれた。
智弁和歌山高校時代は異例の「絶対的エース」としてマウンドを守った。
監督の高嶋仁が例年複数投手制を採用するなか、岡田のみは絶対的エースとして君臨した。
そのためか、メディアから下級生時には「高嶋監督の秘蔵っ子」、最後の夏は「夏の申し子」と呼ばれた。
スカウトも「岩瀬仁紀2世」と絶賛していた。
高校の1学年先輩に坂口真規、1学年後輩に西川遥輝がいる。
2009年10月29日、ドラフト会議で中日ドラゴンズから菊池雄星の外れ1位として指名を受ける。
背番号は、前年オフにMLBのアトランタ・ブレーブスに移籍した川上憲伸が着用していた「11」に決定。
入団会見で、「エースとして活躍したいので、少しでも近づけるように、技術を磨いてしっかりやっていきたい」と意気込みを語った。
2012年まで一軍登板がなかった。
同年5月12日には結婚が発表され、オフには川上憲伸の中日復帰に伴い、背番号を同年にボルチモア・オリオールズに移籍したチェンが着用していた「21」に変更した。
2013年、開幕2戦目となる3月30日の対横浜DeNAベイスターズ戦(ナゴヤドーム)で一軍初登板を果たし、2回を被安打1奪三振2の無失点に抑えた。
4月3日の対阪神タイガース戦(京セラドーム大阪)では先発した中田賢一の乱調により、5回にリリーフ登板して1回を三者凡退に抑えた。
チームはその後逆転したため勝利投手となり、プロ入り初勝利となった。
この後も安定した投球を続け、飛躍の一年となった。
2014年、先発投手陣が手薄だったことからキャンプより先発の調整に取り組む。
オープン戦で結果を出し開幕ローテーション入りを果たす。
炎上、好投を繰り返すが、不安定なまま防御率が悪化し、先発ローテーションから外れてしまう。
その後、ファームでリリーフとしての調整を経て、一軍復帰。
一軍復帰後は安定した投球を見せ、リリーフのままシーズンを終えた。
2015年、開幕を二軍で迎えたが、ほどなくして一軍に昇格する。
序盤は登板間隔が非常に空き調整が難しかったが、好投を続けた。
交流戦以降登板回数は増えるが、基本的にはビハインド時の登板でホールド数やセーブ数を稼ぐことはできなかった。
交代後の投手が打たれ岡田に自責点が付くことがあったが、シーズンを通して非常に良い投球を続け、50試合登板で防御率は1点台でシーズンを終えた。
2016年、開幕当初打ち込まれ、二軍で調整を強いられる。
その後は僅差のビハインドでの登板という役割が与えられる。
5月、6月と徐々に調子を上げていき、6月は月間防御率1.08を記録し、その後は勝ちパターンのリリーフになる。
オフの10月24日に出場登録を抹消された菅野智之の代替選手として「侍ジャパン 野球オランダ代…
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