砂田毅樹, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2920977 / CC BY SA 3.0
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#明桜高等学校出身の野球選手
#横浜DeNAベイスターズ及び横浜ベイスターズの育成選手
#横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手
#札幌市出身の人物
#1995年生
#存命人物
砂田 毅樹(すなだ よしき、1995年7月20日 – )は、北海道札幌市出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
横浜DeNAベイスターズ所属。
高校野球の経験者であった義父(当時は戸籍上の親子関係はない※現在は養子離縁済)の影響で、小学校2年時に野球を始める。
札幌市立伏見中学校時代は札幌南シニアに所属した。
秋田市にある明桜高等学校への進学後は、1年生の春からベンチ入りを果たした。
しかし、利き腕に死球を受けるアクシデントなどの影響で、在学中には春夏とも甲子園球場での全国大会に出場できなかった。
3年生の夏には、選手権秋田大会準々決勝で敗退したが、大会通算投球回数25イニングで自責点1、40奪三振という好成績を残し、NPB球団のスカウトから一躍注目されるようになった。
2013年のNPB育成ドラフト会議で、横浜DeNAベイスターズから1巡目で指名。
支度金300万円、年俸300万円(金額は推定)という条件で、育成選手として入団した。
入団当初の背番号は111で、契約の際には、DeNA球団のイメージを「投手としての手本である三浦(大輔)さんがいるチーム」と表現した。
NPBドラフト会議で指名された秋田県在住の高校生は、2004年に広島東洋カープからの1巡目指名で支配下登録選手として入団した佐藤剛士(秋田商業高校)以来9年ぶりであった。
2014年には、イースタン・リーグ公式戦7試合の登板で、2勝1敗、防御率2.79をマーク。
シーズン終盤からフェニックスリーグへ参加すると、クライマックスシリーズに向けて調整していた阪神タイガースとの対戦で、阪神の主力打線を5回2失点に抑えた。
2015年には、6月7日に支配下選手登録へ移行し、背番号を68へ変更。
6月14日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で、先発投手として一軍公式戦へのデビューを果たした。
7月8日には、対広島東洋カープ戦(みよし運動公園野球場)で先発。
打席で初安打・初打点を記録し、先発投手としても5回無失点という好投で一軍公式戦初勝利を挙げた。
この時点における砂田の年齢は19歳11か月で、NPBの球団へ育成契約で入団した投手(育成出身投手)による一軍公式戦の勝利では史上最年少の記録。
10代の育成出身投手による公式戦の勝利は史上初で、DeNA球団の左腕先発投手による勝利としても、2013年9月19日のエンジェルベルト・ソト以来657日ぶりであった。
さらに9月5日の読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)でシーズン3勝目を挙げたことによって、セントラル・リーグの育成出身投手による一軍公式戦デビュー年の最多勝利を記録した。
一軍公式戦全体では、14試合の登板で、3勝5敗、防御率3.20を記録。
シーズン終了後の11月には、イースタン・リーグの優秀選手賞を受賞した。
12月5日には、秋田県出身(または県内の高校を卒業した他都道府県出身の)NPB選手8人とともに、同県大館市で開催のシンポジウム「夢の向こうにin秋田」(NPB、日本プロ野球選手会、日本高野連主催)に参加し、シンポジウムに参加した県内の高校球児を指導した。
また、背番号を47に変更した。
2016年には、公式戦の開幕直後から先発ローテーションに定着。
4試合目の登板だった5月5日の対東京ヤクルトスワローズ戦(横浜)でシーズン初勝利を記録したが、以降に先発で登板した7試合では結果を残せず、一時は一軍と二軍を往復した。
9月中旬以降は、救援要員として一軍に定着。
9月23日の対巨人戦(東京ドーム)では、6回裏二死満塁からの登板で1回1/3を無失点に抑えると、チームの逆転勝利によって一軍では自身初の救援勝利(シーズン2勝目)を挙げた。
公式戦全体では、17試合の登板で2勝2敗、防御率3.78を記録。
救援登板では通算9試合(10イニング)で1点も許さなかったことから、監督のアレックス・ラミレスから「先発とリリーフで2人の砂田を欲しい」との評価を受けた。
チームがレギュラーシーズン3位で初めて臨んだ巨人とのクライマックスシリーズ第3戦では、同点に追い付かれた直後の6回裏一死から登板し、阿部慎之助を見逃し三振に仕留めたことを皮切りに、3者連続で三振を奪うなど、2イニングを無安打無失点に抑えた。
チームも延長11回まで戦った末に勝利。
球団史上初…
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