高木京介, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2461699 / CC BY SA 3.0
#日本の野球選手
#星稜高等学校出身の野球選手
#國學院大學硬式野球部の選手
#読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
#アジアシリーズ選手
#石川県出身の人物
#1989年生
#存命人物
高木 京介(たかぎ きょうすけ、1989年9月5日 – )は、石川県能美市出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
読売ジャイアンツ所属。
小学校3年で野球を始めてから、厳格な父の下で野球漬けの生活を送っていた。
星稜高校への在学中には、先輩の松井秀喜の愛称にちなんで「ゴジラ2世」と呼ばれた。
1年時の秋からエース兼4番打者に定着するが、2年時には、夏の選手権石川大会と秋の北信越大会でいずれも準決勝敗退を喫した。
3年夏の第89回全国高等学校野球選手権大会で、甲子園球場のマウンドを初めて経験。
長崎日大高校との初戦では、主軸打者として4打数4安打を記録したが、先発投手としては7回途中で降板。
チームも1-3で敗退した。
高校卒業後に國學院大學へ進学すると硬式野球部に入部し、1年時の東都大学野球秋季リーグ戦から投手に専念。
2年の春季リーグ戦から3季連続で投手十傑入りを果たすなど、エースとしてチームを牽引した。
3年時に左肘痛を発症して秋季リーグ戦を途中で離脱したが、4年の春季リーグ戦で復帰した。
在学中には、東都大学1部リーグ戦通算39試合の登板で、9勝21敗、防御率2.21、154奪三振をマーク。
2部リーグ戦でも、通算で4勝3敗という成績を残した。
同期・同学年には甲子園出場経験があったものの、腰痛とヘルニアで硬式野球部を退部して準硬式野球部に転部し、卒業後に野球を断念して競艇選手に転向した安河内将らがいる。
2011年のプロ野球ドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)から4巡目で指名。
契約金5,000万円、年俸800万円(金額は推定)という条件で入団した。
入団当初の背番号は57。
この時のドラフト会議では、高校時代のチームメイトで、卒業後に明治大学へ進学していた島内宏明も、東北楽天ゴールデンイーグルスからの6巡目指名を受けて入団している。
2012年 2012年には、オープン戦での好調を買われて開幕一軍入りを果たした。
巨人の新人左腕投手としては門奈哲寛以来で、3月31日には、東京ヤクルトスワローズとの開幕第2戦(東京ドーム)9回表に一軍公式戦デビュー。
左肩痛の発症によって4月10日に登録を抹消されたが、6月16日に再び登録されると、7月7日の阪神タイガース戦(東京ドーム)で一軍初勝を挙げた。
以降も、中継ぎの一角として一軍に定着。
7月4日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)から登板試合で無失点を続けると、9月18日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、23登板試合連続無失点のセ・リーグ新人投手記録を達成した。
一軍公式戦全体では、34試合へ登板するとともに、29登板試合戦連続無失点のセ・リーグ左腕投手記録を樹立。
レギュラーシーズンの通算防御率は0.57で、この年一軍公式戦30イニング以上投げた救援投手としては、パシフィック・リーグを含めてもトップであった。
チームのリーグ優勝で迎えたポストシーズンでは、クライマックスシリーズ・日本シリーズとも救援での登板を経験。
11月3日には、北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ第6戦(東京ドーム)で1点リードの7回表2死満塁から登板すると、糸井嘉男を2球で右飛に仕留めて交代した。
さらに、チームが交代後に勝ち越してシリーズ制覇を決めたことから、高木が勝利投手になった。
日本シリーズに登板した投手が2球で勝利投手になった事例は、2001年第2戦の岡本晃(大阪近鉄バファローズ)以来2人目。
平成生まれの投手が日本シリーズで勝利投手になった事例は、この試合の高木が初めてであった。
シリーズ後の契約交渉では、推定年俸2,000万円(1,200万円増)という条件で契約を更改した。
2013年には、背番号を28に変更。
レギュラーシーズン開幕前の3月に催されたワールド・ベースボール・クラシックに日本代表の先発要員として巨人の3投手が選ばれたことを背景に、春季キャンプから先発要員として調整していた。
オープン戦では先発で通算12回を投げて無失点に抑えたが、公式戦では中継ぎ要員として再スタートを切った。
広島東洋カープとの開幕カード(東京ドーム)では、3試合すべてに救援で登板。
延長11回表から登板した3月31日の第3戦でブラッド・エルドレッドに本塁打を浴びたため、前年から続いていた登板試合での連続無失点記録は31試合で…
WACOCA: People, Life, Style.