伊藤和雄, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2457828 / CC BY SA 3.0
#日本の野球選手
#東京国際大学硬式野球部の選手
#阪神タイガース及びその前身球団の選手
#埼玉県立坂戸西高等学校出身の人物
#埼玉県出身の人物
#1989年生
#存命人物
伊藤 和雄(いとう かずお、1989年12月13日 – )は、阪神タイガースに所属する埼玉県比企郡小川町出身のプロ野球選手(投手)。
小川東中学校時代に野球をスタート。
当初は控えの二塁手であった。
埼玉県立坂戸西高等学校への入学後に投手へ転向すると、2年時の秋からエースの座を確保したが、在学中には全国大会と無縁であった。
卒業後に高校からグラウンドが程近い東京国際大学へ進学。
広島東洋カープの監督時代に日本シリーズ制覇を3度経験した古葉竹識が監督へ就任したばかりの硬式野球部で、1年時の春から東京新大学野球のリーグ戦に登板した。
エースとして臨んだ4年時(2011年)の春季リーグ戦では、3完封を含む7勝を挙げて、チーム史上初の優勝に貢献。
自身もMVPとベストナインを獲得した。
また、大学として初出場した大学選手権ではベスト4進出に貢献した。
リーグ通算43試合16勝6敗、防御率1.61。
2011年NPBドラフト会議の前には、東京ヤクルトスワローズをはじめ、複数の球団が上位指名候補に挙げていることが報じられた。
実際には、阪神タイガースから4巡目で指名。
東京国際大学の出身者としては初めての指名で、契約金4,000万円、年俸800万円(金額は推定)という条件で入団した。
入団当初の背番号は17。
2012年には、同姓・同年齢・同期入団の伊藤隼太と共に、新人ながら一軍キャンプに参加。
しかし、キャンプ終盤に右肩関節の周囲炎を発症したため、公式戦の開幕を二軍で迎えた。
10月3日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、先発投手として一軍公式戦へのデビューを果たしたものの、一軍公式戦への登板はこの1試合だけにとどまった。
2013年には、2年連続で一軍キャンプに参加。
2013ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)開幕直前の2月26日に京セラドーム大阪で開かれたWBC日本代表との強化試合では、救援登板の2イニングで日本代表打線を完全に抑えたことから、非公式記録ながらセーブポイントを獲得した。
しかし、後に右肘を故障したため、シーズン中は二軍生活に終始。
ウエスタン・リーグでも、公式戦12試合の登板で、1勝1敗、防御率11.57に終わった。
シーズン終了後の11月11日には、育成選手として契約を更改。
背番号も117に変更した。
当時ゼネラルマネジャーだった中村勝広からは、「正直なところ、大学出身の投手で、ファームでの防御率(が11点台に終わったこと)は物足りない。ただ、(本来の)力はこんなもんじゃない。もう1回(支配下登録まで)はい上がってきて欲しい」という言葉で奮起を促されていた。
2014年には、育成選手ながら、オープン戦の途中から2シーズン振りに一軍へ合流。
通算3試合(4イニング)の登板で8奪三振・自責点0という好成績を残したことを背景に、公式戦の開幕直前から「支配下登録選手へ復帰 → 先発要員として一軍に登録」という青写真が報じられるようになった。
3月下旬に右肩の違和感を訴えたことから、公式戦開幕時点での復帰は見送られたものの、4月11日に支配下登録選手への復帰と背番号92への変更が発表。
復帰後は救援で一軍公式戦6試合に登板したが、5月6日以降は一軍から遠ざかった。
2015年には、春季キャンプ直前の1月28日に結婚を発表。
しかし、左脇腹などを痛めた影響で一軍公式戦への登板機会はなく、ウエスタン・リーグ公式戦でも3試合の登板にとどまった。
2016年には、一軍公式戦5試合に登板。
勝敗は付かなかったものの、防御率2.45を記録した。
2017年には、一軍公式戦9試合に登板したが、防御率は4.26と前年から悪化。
ウエスタン・リーグ公式戦では、主に中継ぎで39試合に登板すると、2勝2敗ながら防御率1.05という好成績を残した。
シーズン終了後にはみやざきフェニックス・リーグに参加。
2018年には、二軍監督へ就任した矢野燿大の方針で、二軍のクローザーに抜擢。
ウエスタン・リーグ公式戦36試合の登板で、1勝2敗20セーブ、防御率1.26を記録した末に、リーグの最多セーブ賞を受賞した。
一軍公式戦でも中継ぎで14試合に登板したが、0勝1敗、防御率5.48という成績にとどまった。
2019年には、一軍の春季キャンプへ参加すると、実戦での救援登板で相次いで好投。
一軍監督へ…
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