辻発彦, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1760682 / CC BY SA 3.0

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辻 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 – )は、佐賀県小城市牛津町出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)。
愛称はハツ、はっちゃん。
二塁手として歴代最多となる8度のゴールデングラブ賞を受賞している。
2017年より埼玉西武ライオンズの監督を務める。
長男は、パチスロライターとして活動している辻ヤスシ(本名:辻泰史)。
辻は西武の前身である西鉄ライオンズのファンで、父の運転するトラックで度々佐賀から福岡の平和台野球場へ野球観戦に出かけていたという。
佐賀市立昭栄中学校を卒業した時点では身長が161cmと小柄で高校での硬式野球をあきらめようとも思ったが、佐賀東高校では強い情熱で練習を積んだ。
身長は182cmにまで伸び、日本通運に入社して浦和野球部でプレーした。
辻はレベルの高さにプレッシャーを感じたが、やがて中軸打者として4番を打つようになり、守備では三塁手を務めていた。
1983年のドラフト会議では2位で指名され、西武ライオンズに入団する。
辻の指名の経緯については身体能力の高さ、1983年の1年間に40回盗塁を企図して失敗0だった走塁センス、そして野球への熱意を評価したと根本陸夫は述べている。
都市対抗野球大会では1試合だけ二塁手を務めており、これを見たスカウトからは大型二塁手としての素質を評価されていた。
社会人時代には目立った実績がなく、上位指名に対して驚きの声もあった。
入団直後の1984年のメサでの春季キャンプでは当時の広岡達朗監督から激しいノックを受け、守備を鍛えられた。
辻は新人ながら41試合に出場し、その内29試合は三塁手、4試合は二塁手だった。
オフに二塁手のレギュラーだった山崎裕之が引退し、遊撃手には石毛宏典、一塁手にはスティーブ・オンティベロス(三塁手兼任)や片平晋作、三塁手には秋山幸二がいたため、チーム方針で辻も二塁手を目指すことになった。
辻は当時について、広岡監督が自らグラブを持って手本を示したため厳しい指摘にも反論できなかった、と後に述懐している。
プロ2年目の1985年には出場した110試合中90試合で二塁手を務め、出場機会は大幅に増えた。
日本シリーズ第2戦、7回裏一死一・三塁の場面でセーフティースクイズを敢行するが阪神タイガースの一塁手・ランディ・バースのファインプレーに遭い、三塁走者の秋山がホームでタッチアウトになった。
辻は、「フライを恐れたがもっと強いバントをすべきだった」と後に反省している。
オフの11月19日には郭泰源や通訳と同乗して西武球場へ練習に行く途中、所沢市内で追突されて全治1週間のむち打ち症となったが大事には至らなかった。
1986年は二塁手として全試合に出場し、初めてゴールデングラブ賞とベストナインに選出された。
日本シリーズでは第1戦の7回に二盗と三盗を成功させ、シリーズ史上6人目となる1イニング2盗塁を達成した。
この年は2試合だけ遊撃手のポジションにも入っている。
1987年、3月31日の阪神とのオープン戦で中田良弘のシュートを踏み込んで打ちに行って投球が当たり、右手人差し指を開放骨折した。
飛び出た骨が見えるほどの重症で、一軍登録されたのは7月30日だった。
この年は51試合の出場に終わっている。
読売ジャイアンツと戦った日本シリーズ第6戦では8回裏2アウトから安打で出塁し、続く秋山がセンター前ヒットを放つと捕球したウォーレン・クロマティの緩慢な返球と、中継に入った川相昌弘が打者走者の二塁進塁を警戒して三塁側が死角になったことに乗じて、辻も一気に一塁から生還して駄目押しのホームを踏んだ。
優勝目前の9回表2アウトの場面ではタイムをかけ、泣いていた一塁手の清原和博を慰めている。
1988年は前任の石毛に代わって西武の選手会長に任命され、オフには年俸が1,500万円増の4,300万円(推定)となった。
同年から7年連続して二塁手でゴールデングラブ賞を受賞し、1990年まで3年間連続で全試合出場を果たした。
1989年には初の3割を達成する。
1990年の日本シリーズでは第1戦から3試合連続で一番打者としての第1打席に安打で出塁し、いずれも得点に結びついて、4連勝で…

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