山田修義, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1934564 / CC BY SA 3.0
#日本の野球選手
#敦賀気比高等学校出身の野球選手
#オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手
#福井県出身の人物
#1991年生
#存命人物
山田 修義(やまだ のぶよし、1991年9月19日 – )は、オリックス・バファローズに所属する福井県福井市出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
中学生時代に全日本少年硬式野球連盟(ヤングリーグ)のオールスター福井に所属すると、敦賀気比高等学校の2年春に第80回選抜高等学校野球大会、3年夏に第91回全国高等学校野球選手権大会で甲子園球場に登場。
3年春の福井県大会では1試合20奪三振、3年夏の選手権福井大会では通算49奪三振の大会記録を樹立した。
2学年後輩に吉田正尚がいる。
2009年のNPBドラフト会議で、オリックス・バファローズから3巡目で指名。
契約金5,000万円、年俸500万円(金額は推定)という条件で入団した。
背番号は57。
2010年には、ウエスタン・リーグ公式戦13試合に登板。
投球回数54回で、3勝3敗、防御率3.33という成績を残した。
9月5日の対福岡ソフトバンクホークス戦(スカイマークスタジアム)で、先発投手として一軍公式戦へデビュー。
オリックスの高卒新人投手による一軍公式戦への先発登板は、1994年の平井正史以来であったが、3回1失点という内容で勝敗は付かなかった。
2011年には前年に続いて、ウエスタン・リーグ公式戦13試合に登板。
0勝3敗、防御率5.18という成績で、一軍公式戦への登板機会がなかった。
2012年には、8月17日付で自身2年振りの出場選手登録。
登録後は一軍公式戦2試合に先発したが、いずれの試合でも敗戦投手になった。
以降の公式戦にも敗戦処理要員として4試合に登板したが、9月23日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)で今江敏晃に満塁本塁打を浴びると、翌24日に登録を抹消。
そのままシーズンを終えた。
なお、ウエスタン・リーグ公式戦では、春先から先発要員として起用。
21試合の登板で、5勝7敗、防御率2.43を記録した。
2013年、ウエスタン・リーグ公式戦で、先発要員として16試合に登板。
5勝4敗、防御率2.54という成績を残したが、一軍公式戦での登板機会は1試合(投球回数1回1/3)にとどまった。
2014年は、4月に左肘のトミー・ジョン手術を受けたため、一・二軍とも公式戦に登板しなかった。
その影響で、10月28日に球団から支配下選手契約の解除を通告。
11月26日には、育成選手契約を締結するとともに、背番号を121に変更することが球団から発表された。
2015年には、7月27日付で支配下登録選手へ復帰するとともに、背番号を57に戻した。
復帰後は、一軍公式戦7試合に登板。
9月22日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武プリンスドーム)では、一軍公式戦3年振りの先発を経験した。
その後も1試合で先発したが、通算では0勝1敗、防御率5.51という成績に終わった。
2016年には、故障で出遅れたことから、シーズン初の一軍マウンドは6月18日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)での先発登板にまで持ち越された。
この試合から先発陣の一角で好投を続けると、5試合目の登板になった7月27日の対ロッテ戦(ほっともっとフィールド神戸)で、一軍公式戦初勝利を挙げた。
2017年には、一軍公式戦4試合に登板。
いずれも先発に起用されたが、制球難から0勝3敗、防御率8.76と振るわず、当時の一軍監督だった福良淳一からは「もう(一軍で登板するチャンスは)ない」という言葉で突き放された。
シーズン終了後には戦力外通告の候補に挙げられていたが、実際には、推定年俸720万円(前年から180万円減)という条件で辛うじて契約を更改した。
2018年には、レギュラーシーズン後半の8月2日から、中継ぎ要員として一軍に昇格。
開幕から81試合連続で先発投手の完投がなく、前半戦だけで10回の延長戦を経験するといった一軍の事情を背景に、ウエスタン・リーグ公式戦で6月から救援登板を重ねていた山田に白羽の矢が立てられた。
昇格後は、8月の1ヶ月間だけで18試合に登板すると、4日の対ソフトバンク戦(福岡ヤフオク!ドーム)でプロ初ホールドをマーク。
11日の対ロッテ戦(京セラドーム)では、7回裏からの救援登板で1回2/3を無失点に抑えると、降板後の逆転勝利によって一軍公式戦2シーズン振りの白星が付いた。
一軍公式戦への月間18試合登板は、1956年…
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