比嘉幹貴, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1926390 / CC BY SA 3.0
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#国際武道大学野球部の選手
#日立製作所硬式野球部の選手
#オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手
#沖縄県出身の人物
#1982年生
#存命人物
比嘉 幹貴(ひが もとき、1982年12月7日 – )は、沖縄県沖縄市出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
オリックス・バファローズ所属。
沖縄県立コザ高等学校では1年秋から投手、国際武道大学ではリーグ通算29勝で4年連続大学選手権出場に貢献、3・4年は先発したが初戦敗退。
日立製作所に入社。
同社野球部では当初は怪我が多くなかなか試合に出場できなかったが、その後徐々に実力を開花、荻野忠寛がプロ入りで抜けた後のチームの大黒柱に成長した。
第80回都市対抗野球では優秀選手 2009年のドラフト会議で、オリックス・バファローズに2位指名された。
当初入団交渉は難航したが、最終的には契約金6000万円・年俸1200万円+出来高払い(金額は推定)で契約合意した。
指名後に行われた第35回社会人野球日本選手権大会2回戦、対九州三菱自動車戦では9回2死までノーヒットノーランの好投を演じるも、打線の援護がなく二死から二者連続死球を与えたところで交代、後を受けた投手がサヨナラヒットを喫したことから被安打0で負け投手となった。
2010年には、故障で開幕に出遅れながらも、シーズン途中から一軍公式戦で救援投手として活躍。
9月4日の対福岡ソフトバンクホークス戦(スカイマークスタジアム)では、4点リードから同点に追い付かれた直後の5回表2死満塁の場面で登板すると、多村仁志を3球で三振に討ち取った。
さらに、その裏に大引啓次が決勝打を放った結果、一軍での初勝利を挙げた。
一軍公式戦全体では、24試合の登板で、防御率1.25、WHIP0.69、右打者からの被打率.151を記録。
2011年には、5月上旬にシーズン初の出場選手登録。
しかし、右肘痛を発症したため、一軍公式戦での防御率0.00ながら2試合に登板しただけで登録を抹消された。
後半戦から一軍に復帰。
7月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦(帯広の森野球場)では、3回裏2死から1回1/3を投げたが、ボビー・スケールズに満塁本塁打を浴びるなど自己ワーストの7失点を喫した。
一軍公式戦通算では、オール救援で23試合に登板。
前年とほぼ同数の投球回数を記録する一方で、被安打が前年から倍増したり、防御率が7.15に達した。
2012年には、オープン戦で右肘痛を発症した影響 で、実戦復帰は8月のウエスタン・リーグ公式戦にまで持ち越された。
9月5日の対千葉ロッテマリーンズ戦では、同期入団で一軍初先発の前田祐二に続いて、6回表の途中からシーズン初の一軍公式戦登板。
1死1塁のピンチを併殺で切り抜けた結果、前田に一軍初勝利をもたらした。
9月11日の対埼玉西武ライオンズ戦では、1点ビハインドの8回裏からの登板で無失点に抑えると、9回表に味方打線が逆転。
その結果、2010年9月26日の対ロッテ戦以来、716日振りに一軍公式戦で勝利を挙げた。
シーズン通算では、一軍公式戦12試合の登板ながら、防御率1.80を記録した。
2013年には、プロ入り後初の開幕一軍登録。
3月29日にロッテとの開幕戦(QVCマリンフィールド)へ登板したが、2失点を喫して敗戦投手になった。
さらに、翌30日の同カードでは1アウトも取れずに降板したため、開幕戦からわずか2試合で登録を抹消された。
4月後半に一軍へ復帰してからは好調を維持。
5月には、12試合の登板で自責点を0にとどめた。
連投が続いた6月・7月にやや調子を落としたが、シーズン終了まで一軍の救援陣に定着。
その結果、一軍公式戦で59試合に登板するとともに、11ホールドを記録した。
2014年には、先発投手や他の救援投手が試合の中盤(主に6・7回)で走者を出した局面を中心に、一軍公式戦で自己最多の62試合に登板。
一軍監督の森脇浩司から「切り札」と称される ほどの信頼を背景に、佐藤達也・馬原孝浩・平野佳寿と共に「勝利の方程式」へ組み込まれると、チームのレギュラーシーズン2位・クライマックスシリーズ進出に貢献した。
レギュラーシーズンでは、34登板試合連続無失点(パシフィック・リーグのシーズン公式戦タイ記録)を達成したほか、通算で0点台の防御率を記録した。
2015年には、春季キャンプの序盤で右肩を痛めた ため、一軍公式戦へのシーズン初登板は6月20日の対埼玉西武ライオンズ戦(ほっともっとフィールド神戸)まで持ち越された。
この…
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