広瀬新太郎投手は、甲子園には出ていないが野村克也出身の峰山高の大型サウスポーとしてドラフト前に話題となった。原辰徳を指名し外した横浜大洋の外れ1位で大洋に入団。
3年目から1軍デビューもなかなか勝つことは出来ず、、、プロ通算12年で1軍実働はその半分の6年で84試合登板でわずか3勝(7敗)に終わった。
背番号も最初はエースナンバー18で期待されていたが85年開幕ローテ入りも1勝に終わり翌年は背番号も13に変更するも僅か3試合登板に終わりオフに片平晋作、永射保両選手との交換トレードで西武ライオンズに移籍。
西武では4年間で背番号も65、19、66と変遷し登板は僅か5試合に終わり90年オフに高校の大先輩野村克也監督のヤクルトに拾われるように移籍。
91年は29試合登板1勝2敗とプチ野村再生工場状態だったが、翌92年は1軍登板なく30歳で引退。ホント未完の大器の典型例だと言える。
 
						
			
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