山井大介, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=175552 / CC BY SA 3.0

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#神戸弘陵学園高等学校出身の野球選手
#奈良学園大学硬式野球部及びその前身チームの選手
#河合楽器硬式野球部の選手
#中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手
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山井 大介(やまい だいすけ、1978年5月10日 – )は、大阪府豊中市出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
中日ドラゴンズ所属。
少年時代はボーイズリーグの「箕面スカイラーク」に所属。
神戸弘陵高校時代には後にプロでチームメイトとなる玉野宏昌と同級生だった。
3年夏は県大会準優勝。
同じく1学年下に元西武ライオンズの佐藤友紀がいる。
その後奈良産業大学では2年春に最優秀選手となり、大学選手権で先発も初戦敗退。
3年時の同大会は2回戦で完投し(7回コールド)ベスト8。
4年春は最優秀投手、ベストナイン3回。
社会人野球の河合楽器に入社。
2001年の第72回都市対抗野球大会の準決勝で勝利を挙げるなど、同社の初優勝に貢献する。
しかし同年限りで野球部が休部したため、社会人1年目だが特例措置でドラフト対象となり、2001年のドラフトで中日ドラゴンズから6巡目指名を受け入団。
なお、同僚の久本祐一も4巡目指名でドラゴンズに入団している。
2002年(1年目)にオーバースローとサイドスローを併用する変則投法で、新人ながらシーズン31試合に登板、6勝(3敗)を挙げた。
2003年は、サイドスロー固定を図ったが、逆にフォームを崩してしまいシーズン4試合の登板に終わる。
しかし、ウエスタン・リーグで最多勝を獲得。
2004年シーズン後半、オーバースローに固定して一軍に復帰、9月12日の対広島東洋カープ戦で初完封勝利を記録。
最終的に2勝を記録した。
終盤の好投が光ったことで西武ライオンズとの日本シリーズ第4戦では先発投手を任された。
6回無失点に抑え、日本シリーズ初登板初先発初勝利を記録した。
しかし、第7戦では先発のドミンゴ・グスマンがKOされた後、中継ぎとして2番手で3回途中から登板したが、アレックス・カブレラに5点のリードに広げられる2点本塁打を打たれ、1/3を投げて1失点で降板した(2点本塁打の内、もうひとつの失点はドミンゴが出した走者のため、ドミンゴの失点となる)。
結果的にチームは敗れ日本一を逃した。
2005年は一軍と二軍を行き来。
2006年、右肩の痛みから初めて一軍登板なしに終わった。
同年オフ、幼馴染との結婚を発表。
2007年は、山本昌の不調から先発ローテーションの一角を任されるが、援護が少なく長らく勝ち星から見放されていた。
また、序盤から突然崩れることも目立ち、波に乗れなかった。
8月21日の対巨人戦に登板し、またも初回からピンチを招くが、1失点で切り抜けるとその後は無得点に抑え、2年ぶりとなるシーズン初勝利を挙げた。
その後は調子も安定し、稀にみる巨人及び阪神との三つ巴の優勝争いの中、9月には登板5試合で4勝1敗、防御率3.00の好成績を挙げ、自身初のセ・リーグ月間MVPを受賞した。
クライマックスシリーズでは第2ステージ第1戦での先発予定も右肩痛再発のため回避。
北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第5戦(ナゴヤドーム)に先発登板し、8回まで1人も走者を出さない完全試合としたが、9回に降板して、抑えの岩瀬仁紀が三者凡退で抑えたことで、レギュラーシーズン中も含めてNPB史上初の継投による完全試合を達成。
しかし、山井から岩瀬への継投を行った監督の落合博満の采配については、スポーツマスコミ、野球評論家などを中心に賛否両論が巻き起った(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投)。
2008年、3月2日の日本ハムとのオープン戦に右足内転筋痛を訴えて出遅れ、4月9日に選手登録された。
4月17日の対読売ジャイアンツ戦に先発し、7回を1失点に抑えるも敗戦投手に。
しかし、2試合に登板したのみで、右肘痛のため出場選手登録を抹消された。
その後、クライマックスシリーズで再び一軍登録されるも不甲斐ないシーズンとなってしまった。
2009年、エースの川上憲伸が抜けたことにより、先発ローテの一角を担うことが期待された。
しかし、開幕一軍はならなかった。
4月15日に同年初の一軍昇格。
4月19日の対巨人戦に登板するも2回4失点で降板した。
5月8日の対巨人戦も1回3失点と振るわず、試合後二軍に降格した。
その後は一軍復帰し、岩瀬仁紀の故障時に自身4年ぶりとなる…

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