マティ・アルー, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=165327 / CC BY SA 3.0

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マテオ・ロハス・アルー(Mateo Rojas “Matty” Alou、1938年12月22日 – 2011年11月3日)は、ドミニカ共和国出身のプロ野球選手(外野手)。
兄のフェリペ・アルーと弟のヘスス・アルーも元メジャーリーガー。
また、モイゼス・アルーは甥にあたる。
サンフランシスコ・ジャイアンツで最初の数年間は控え選手であったが、1962年に同率首位で並んだロサンゼルス・ドジャースとの3試合制プレーオフ最終戦で9回に反撃の口火を切るセーフティバントを決め、チームは逆転でワールドシリーズ進出を果たす。
1963年には、シーズン終盤の9月15日に弟ヘススがメジャーに昇格。
当時の監督アルヴィン・ダークの計らいで、すでにレギュラーとして活躍していた兄フェリペとともに兄弟3人で外野を守った事がある。
この時には、スター選手のウィリー・メイズがベンチに退いた。
なお、フェリペは翌年ミルウォーキー・ブレーブスに移籍し、三兄弟がチームメイトとなったのはわずかな期間のみであった。
1966年にピッツバーグ・パイレーツにトレードされると、名コーチのハリー・ウォーカーから指導を受けた事が彼の野球人生において大きな転機となる。
同年は打率.342で自身初タイトルとなる首位打者を獲得。
しかも兄フェリペは打率2位になり、兄弟でのワンツーフィニッシュとなった。
その後も打率5位以内に4回入るなどの活躍を見せる。
1972年途中にオークランド・アスレチックスに移籍し、同年のワールドシリーズでは全試合に先発出場し1安打に終わるもチームはワールドチャンピオンに輝く。
1974年シーズン途中に太平洋クラブライオンズに入団し、来日。
当時のチームメイト東尾修が「ピッチャー横を抜いて三遊間前へ転がすセーフティバントなど、初めて見た」と語るように小技もうまい一方、3打席連続本塁打を放つほどのパンチ力もある優れた選手だった。
1976年に退団し、帰国。
その後は母国ドミニカ共和国のウィンターリーグで監督を務める。
2011年11月3日、ドミニカ共和国で死去。
72歳没。
^ “太平洋でも活躍のマティ・アルー氏死去”. 日刊スポーツ (2011年11月4日). 2011年11月4日閲覧。

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