吉川光夫, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=700558 / CC BY SA 3.0
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吉川光夫
吉川 光夫(よしかわ みつお、1988年4月6日 – )は、福岡県福岡市東区出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。北海道日本ハムファイターズ所属。
1988年に福岡県で生まれる。東区の香椎第三中学校時代に所属していたボーイズリーグで全国大会3位まで勝ち進む。県内の高校からの誘いもあったが、熟考の末に広陵高等学校へ進学する。広陵では入学当初から期待されて2年生の春から背番号1を付ける。制球難で四死球を出すことが多かったが素材は高く評価され、同野球部監督の中井哲之は、吉川について「入学当初から、『こういう子がプロに行くのだろうな』と思った」と後に雑誌のインタビューで言っている。甲子園出場経験はなく、3年生での全国高等学校野球選手権広島大会では、一学年下の野村祐輔、小林誠司らを擁して優勝候補に挙げられたが、準決勝で制球を乱し井上晴哉らのいた崇徳高等学校に敗れている。
9月25日の2006年度高校生ドラフト会議にて、田中将大の交渉権獲得に失敗した北海道日本ハムファイターズから外れ1巡目として指名を受けた。
5月17日に初めて一軍に昇格し、同日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(東京ドーム)に中継ぎでプロ初登板。6月8日の東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初勝利。この試合は雷雨で降雨コールドゲームとなったため、「カミナリ王子」と呼ばれた。また、この試合のヒーローインタビューはベンチ内で行われた。その後、八木智哉・金村曉が故障で離脱したことで、その穴を埋める形で先発ローテーションに定着し4勝。2007年の日本シリーズでも高卒新人としては中村大成・稲尾和久・堀内恒夫・石井一久以来となる先発登板した。
は開幕から先発ローテーションに入ったものの、7試合で2勝4敗・防御率6.23と調子の上がらないままセ・パ交流戦前に登録抹消、そのまま一軍に戻ることはなかった。
も開幕を二軍で迎える。7月7日に年上の歯科衛生士と結婚。9月に1軍昇格すると、投球回数を上回る奪三振数を記録したものの、シーズン未勝利に終わる。
も4月に登板した試合で炎上し、当時のチームメイトだったダルビッシュ有にtwitterで名指しで批判された。その後、9月以降は中継ぎとして登板して、4試合4回2/3を失点0に抑えるなど復活の兆しを見せた。
は開幕を二軍で迎える。5月末に昇格したものの最少失点で抑えた試合でも打線の援護がないなどの不運も重なって3年連続のシーズン未勝利に終わった。一方、二軍では好投を続け、イースタン・リーグ投手四冠王に輝いた。
は開幕から先発ローテーション入りし、4月1日の埼玉西武ライオンズ戦では黒星を喫したが8回1失点と好投を見せ、4月8日の千葉ロッテマリーンズ戦では1438日ぶりの勝利を挙げた。交流戦では内海哲也と並ぶトップタイの4勝を挙げ、防御率1.42と安定した内容でセ・パ交流戦優秀選手賞(パシフィック・リーグ)を受賞した。なお6月5日の広島東洋カープ戦では3回に東出輝裕の頭部に当て危険球による退場処分を受けた。8月11日の西武戦では、新人以来5年ぶりとなる完封勝利を自身初の無四球で飾ると、次の登板である8月17日のロッテ戦では自身初の2桁勝利をマークした。最終的にはリーグ2位の14勝を挙げ、自身初のタイトルとなる最優秀防御率を獲得し、パ・リーグMVPに選ばれチームの優勝の原動力となるなど、前年までの不振を全て払拭したシーズンとなった。しかし、巨人との対戦となった日本シリーズでは一転して肘の痛みと変化球の制球に苦しみ、第1戦、第5戦と先発するが、レギュラーシーズンで3本塁打だったジョン・ボウカーに両試合ともに本塁打を打たれ、いずれも敗戦投手になった。
はチームトップの160.1回イニングを投げ2年続けて先発ローテーションを守るも7勝止まりで、黒星もリーグワーストの15敗を喫した。
は自身初となる開幕投手に指名されたものの、4試合で3敗と打ち込まれ二軍降格、シーズン初勝利は5月までずれ込んだ。この年は若手の上沢直之や中村勝らのローテ定着もあってわずか3勝に留まり、規定投球回にも到達しなかったが、クライマックスシリーズでは福岡ソフトバンクホークス戦に登板し6回3失点で勝利投手となった。
は開幕から勝ち星を重ね…
 
						
			
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