アレックス・ラミレス, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=111292 / CC BY SA 3.0

#ベネズエラの野球選手
#クリーブランド・インディアンスの選手
#ピッツバーグ・パイレーツの選手
#東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手
#読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
#横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手
#最優秀選手_(NPB)
#本塁打王_(NPB)
#打点王_(NPB)
#首位打者_(NPB)
アレキサンダー・ラモン・ラミレス・キニョーネス(Alexander Ramón Ramírez Quiñónez、1974年10月3日 – )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(外野手)。
ヤクルト時代は入団1年目の2001年にチームのリーグ優勝・日本一に貢献。
以降も主力選手として活躍し、2003年には本塁打王・打点王・最多安打のタイトルを獲得。
2007年には外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成し2度目の最多安打を獲得した。
巨人時代は主力として2008年に打点王、2009年に首位打者を獲得するとともに2年連続でMVPを受賞し、2度のリーグ優勝、日本一(2009)に大きく貢献した。
DeNA時代は2013年に日本通算2000安打を達成し、外国人選手では史上初の名球会への入会を果たした。
8年連続100打点超えの記録を持つ。
引退後、2016年シーズンから2020年シーズンまで横浜DeNAベイスターズ監督も務め(第30代)、就任時点で外国籍を有する監督としてはNPB史上9人目で、NPB史上初の米国籍以外の監督であった。
2019年に日本に帰化した。
実家はベネズエラの首都・カラカス近郊の「ピニャンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。
人口は約200人で、そのうち4分の3程がラミレスの一族だという。
5歳で兄の影響を受け野球を始め、8歳で地元リトルリーグの監督にスカウトされチームに所属。
15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。
当時は主に投手を務めていた。
18歳でベネズエラの国内選手権に出場した際に外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンズのスカウトの目に留まりマイナーリーグ契約をする。
1994年2月に結婚し、8月から1995年4月までメジャーリーグ史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のメジャーリーグスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。
そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャーリーグ選手会への加入を認められなかった。
1998年はAAA級バッファロー・バイソンズで121試合に出場。
34本塁打103打点6盗塁、打率.299と結果を残し、9月19日に初のメジャーリーグ昇格を果たした。
同日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビュー。
1打数無安打1三振に終わった。
2000年7月28日にウィル・コルデロとのトレードでエンリケ・ウィルソンと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍。
しかしパイレーツへの移籍直後は好調だったものの、8月に入るとスランプに陥りスタメンから外されるようになる。
ラミレスによれば「打撃コーチ(ロイド・マクレンドン)に打席でのスタンスを変えるよう指示されそれに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という。
2000年11月1日、ヤクルトスワローズに入団。
背番号は3。
ただし、当時ラミレスはフロリダ州で家と車を購入したばかりでそのローンが残っていたため、当初は「1年だけ日本で金を稼いで、(ローンを)返済したらすぐに戻る」つもりだったという。
来日1年目の2001年は138試合出場、打率.280・29本塁打・88打点の好成績をマークし、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。
当初の契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプ初日に当時右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼(稲葉)には勝てない」と感じ、左翼手に転向した。
2002年も139試合に出場し、3割近い打率を残した。
一方でリーグ最多の146三振を喫した。
2003年は読売ジャイアンツへ移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番に座り、全140試合に出場、打率.333・40本塁打・124打点の成績を収めて打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。
来日3年目で初の3割達成となった。
2004年8月21日の対阪神タイガース戦(明治神宮野球場)では、トレイ・ホッジスからランニング本塁打を放った。
この…

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